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【特集:ぶらり日本経済】兜町:景気を映す「証券の街」の落日=和島英樹

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兜町

 

◇日本のベネチアになり損ねた

景気を映す「証券の街」の落日

 

 

和島 英樹(ラジオNIKKEI記者)

 

 かつて証券の街としてにぎわいを見せた日本橋兜町が廃れている。長引く景気の低迷で株価はピークの半分を下回り、コンピューター取引で証券会社は兜町に拠点を置く意味がなくなりつつある。茅場町から兜町一帯にオフィスを置く証券会社は、いまや20社程度に減った。空いた土地にはマンションが建設され、証券の街の面影は日に日に薄れつつある。

 

◇バブル崩壊で衰退

 

 兜町は日本橋川、楓川(1865年に埋め立て)、隅田川などに囲まれた地域にあり、その地形から「シマ」と呼ばれていた。現在の東証周辺は、多くの人は川を渡らなければ入れない独特な場所になっていた。

 証券界は1990年代後半に通信回線が発達するまで、人海戦術に頼った業界だった。98年に株式の売買が完全にシステム化される以前は、人による注文発注が基本だった。証券会社は、売買注文を出すために、取引所の近くにある必要があった。シマにはたくさんの証券会社があり、多数の従業員が働いていた。証券マンや投資家以外の人たちが入りにくい、一種独特のムードを醸し出していたのである。

 街の雰囲気は好不況で様変わりした。相場の良いときはうなぎ屋がにぎわい、飲み屋も満杯になる。羽振りの良い証券マンが「車を買った」「家を建てた」という話が飛び交う。一方、不況時にはリストラやボーナスの減少を嘆いた。

 特に、80年代のいわゆるバブル相場は別格だった。株価はうなぎ登り、証券界は人材を大量に採用した。採用人数は、大手クラスで年間1000人単位に上ったという。優秀な内定者を逃がさぬよう、会社訪問解禁日(当時は10月だった)に海外旅行に連れて行くなど、囲い込みに必死だった。

 当時は現金での受け渡しが多かった。受け渡しの場となったのは喫茶店だ。兜町の喫茶店では数千万円単位のやり取りが、日常茶飯に行われていた。株価の上昇に合わせて兜町一帯の地価も値上がりした。ごく細長い矮小な土地に、坪1億円の値段がついたとのうわさがあったくらいである。・・・・・

                                      続きは本誌で


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