国内のインフレ圧力が弱いなか、米国の景気が失速すれば、日銀のもくろみは大きく崩れる可能性がある。
白川浩道(クレディ・スイス証券副会長兼チーフ・エコノミスト)
日銀の出口とは、過度な金融緩和からの「脱却」を意味するのであろう。それは、頻繁な金融政策の枠組み変更の歴史に終止符を打ち、金利の操作目標を一定のプラス(0・25%超)のコールレート(銀行間短期金利)に戻し、併せて膨張したマネタリーベース残高(国債保有残高)、及び、株式の上場投資信託(ETF)などの信用リスク資産保有額の縮小を開始すること、であろう。
こうした金利と量の両面での正常化が視野に入ってはじめて、「日銀は出口に立った」と胸を張ることができる。
しかし、出口までの道のりは長い。現在の仕組みでは、マネタリーベース残高の縮小を開始できるのは、プラス2%の消費者物価上昇率の持続的な達成が確認されて以降であり、現状でこれを展望することは極めて困難である。
その前段階である、長短金利操作(イールドカーブ・コントロール)政策の廃止とコールレート目標への移行はどうか。その条件は、日銀が、「消費者物価上昇率が2%程度で安定推移することをそれなりに自信を持って予想できること」であろう。具体的には、食料・エネルギーを除く消費者物価上昇率がプラス1・5%程度に達し、上昇傾向がはっきり表れるということだ。残念ながら、これが達成される可能性もかなり低い。出口はまだ見えていないに等しい。
第一に、日本経済において国内要因のインフレ圧力は弱い。有効求人倍率などは労働需給がかなりひっ迫していることを示唆しているとされるが、そうであるならば、なぜ賃金の上昇率が高まらないのか。最も有力な答えは、「人手不足は一部の職種や業種に限られており、事務職や管理職の多くが直面している問題は、むしろ人余り、すなわち過剰雇用」というものであろう。人余りを背景に労働生産性が低い状態で、企業が積極的に賃金を上げる理由はなかろう。
他方、国内生産・営業設備が足りないという話はあまり耳にしない。製造工業設備稼働率のデータをみても、直近の水準は、リーマン・ショック前のピーク(2008年春)を13~14%も下回っている。生産設備が老朽化していることを加味すれば、実際の稼働率はもっと高いとの見方もあるが、日本企業は償却を上回る純投資を拡大させてきており、生産設備の老朽化はさほど起こっていないと判断される。
むしろ、ネット通販の拡大などによって小売業の営業店舗などには過剰感が出ている可能性がある。地方も含めた現在のホテル建設ラッシュから考えて、東京オリンピック後には宿泊施設の遊休化も懸念される。いずれにせよ、設備不足による持続的なインフレを予想できる状況にはまだない。
◇米国経済の減速リスク
第二に、世界経済の高成長が継続し、世界的に物価水準が上がることで輸入インフレ圧力が高まり、日本国内の物価が上昇する、という見方にも簡単にはくみせない。
昨年の世界経済は確かに好調であった。米国景気が加速したからである。加えて、米国では、大規模減税と歳出拡大措置が決定された。このため、18年の米国の実質国内総生産(GDP)成長率は3%に達し、FRBによる年内の利上げ回数は3ないし4回となり、長期金利(10年国債利回り)は、早晩、3%を大きく上回ることになる、との見方がコンセンサスになりつつある。
そうした状況で日銀が10年国債金利の誘導目標を現在の0%程度で据え置けば、いずれ、為替相場は円安になり、世界物価上昇と相まって日本の物価も上がる、という筋書きが語られている。
しかし、米国の経済成長率が高まる保証はなく、減速するリスクも看過できない。その理由は大きく分けて二つある。
まず、米国景気は、昨年秋以降に加速したが、これは、8月下旬から9月上旬にかけての大型ハリケーン上陸の被害に伴う特需の影響が大きい。特需は、自動車販売台数の突然の上振れ(17年8月の年率1603万台から9月の年率1847万台へ)に最も顕著に表れたが、工場の損壊を受けた一部機械の買い替え需要もあったとみられる。また、やや遅行して住宅着工統計にも特需の影響がみられた。
昨年の米国の実質GDP成長率は2・3%だったが、ハリケーン特需を除いた実力ベースの成長率は2%を幾分下回る程度であったとみられる。仮に実力相応の成長率を2・0%と仮定して、そこから0・3%上振れたのであれば、今度は0・3%の下振れが起こっても不思議ではない。つまり、自動車販売などの特需部分が消えてしまうと、米国の実質GDP成長率は1・7%程度に低下するのではないか。減税と歳出拡大措置のGDP押し上げ効果は0・5~0・6%とみられるため、18年の成長率は、単純計算では2・2~2・3%になる。3%成長への加速ではなく、昨年と同程度の成長速度にとどまる可能性があるということだ。
また、米国経済は循環的に景気鈍化の方向に向かっているとみられる。米国の短期金利は連続利上げを織り込む形で淡々と上昇してきたが、債券市場の景況感はさほど改善しておらず、長期金利の上昇幅は相対的には小幅である。このため、14年以降、米国債のイールドカーブはフラット化(長短金利差が縮小)しており、銀行の資金利益やリスクテーク能力には下押し圧力がかかり続けている。
◇円高で物価下落
経済成長率が加速せず、長期金利が低下する中でFRBが利上げを継続すれば、イールドカーブの更なるフラット化が進むだろう。その行き着く先は、民間銀行貸し出しの縮小、社債の価格下落、株価の調整、逆資産効果による個人消費の減退、などと予想される。時期を正確に予想することは困難だが、景気鈍化がはっきりしてくれば、米国10年債利回りは再び2%程度に低下するのではないか。
仮に、米国10年債利回りが2%程度に低下すれば、日米長期金利差の大幅な縮小の下で、為替相場は1ドル=100円以下の大幅な円高になるものとみられる。急激な円高は日本経済を物価下落状態に逆戻りさせるリスクを高める。前述のとおり、日本の国内要因のインフレ圧力は弱いからだ。あくまでリスク・シナリオではあるが、こうした経済環境になれば、超金融緩和からの出口論は吹き飛んでしまうだろう。出口が視野に入らないだけではなく、日銀は、更なる円高の阻止に向けた追加緩和を迫られるからだ。
しかし、追加緩和の選択肢は限られている。長期国債購入額の増加(量的緩和の再拡大)は10年国債利回りを深いマイナスの領域(例えば、マイナス0・2%程度)に押し下げる可能性が高く、年金基金や民間金融機関の収益悪化をもたらす。そうした副作用を考慮すれば、採りにくい選択肢であろう。
従って、日銀は、“更なる異次元の世界”に足を踏み入れることになるかもしれない。現状2%のインフレ目標の3%への引き上げ、マネタリーベースの永続的な拡大の約束、外債や外国株式の直接購入の開始など、が候補になろう。
このように、国内インフレ圧力の弱さや米国景気下振れ・鈍化のリスクを考慮すれば、超金融緩和からの出口戦略と並行して、急激な円高が生じた場合の対応策を練っておくことが重要ではないだろうか。
◇しらかわ・ひろみち
1961年東京都生まれ。83年慶応義塾大学経済学部卒業、日本銀行入行。調査統計局、国際局、経済協力開発機構(OECD)出向などを経て99年に退職。UBS証券チーフエコノミストなどを経て2017年から現職。著書に『孤独な日銀』『危機は循環する―デフレとリフレ』など