金融政策をめぐる議論は必然的に食い違う。物価と雇用の関係を示すフィリップス曲線が、現実には安定的に存在しないからだ。
竹中正治(龍谷大学経済学部教授)
いわゆるリフレ派やリフレ批判派といっても、論者により意見の相違がかなりあるのだが、強固なリフレ派は現状の金融緩和の維持、ないしは強化を主張する。一方で批判派は現行の金融政策をそもそも全否定する論者から、そろそろ出口を目指すべきであると唱える穏健派まで意見が分かれる。
なぜ、これほど意見が対立するのか。その根底には、現代の金融政策のよって立つ原理が現実には不安定である事実がある。
そもそも金融政策の目的は何か。米国のFRB(連邦準備制度理事会)については「二重の使命(dual mandate)」と言われ、物価の安定と雇用の最大化である。雇用の最大化とは、失業率が自然失業率に近い水準を実現することだ。自然失業率は主に摩擦的失業率(転職活動中の労働者)と構造的失業率(職種、年齢、地域などによる労働需要と供給のミスマッチ)からなり、これ以下には下がらない水準である。
しかし二つの異なる政策目的がある場合、それを実現するためには適合的な政策手段が最低二つ必要と原理的に考えられている。金融政策ひとつに二重の使命を課すのは矛盾ではないのか。
この点で日本銀行法第2条では「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を日銀の理念とし、米国のような二重の使命を避けている。とは言うものの、「国民経済の健全な発展に寄与すること」と述べているので、景気への配慮は日本でも金融政策の重要な要素だ。
それでは物価の安定と雇用の最大化は同時に実現され得るのか。実現可能であるとする立場が依拠するのが、「フィリップス曲線」と呼ばれる失業率と物価上昇率の関係性だ。
図1が示す通り、景気過熱期には失業率が自然失業率より下がり、総需要>総供給力となるので、物価上昇率が上がる。この局面では金融政策を引き締めれば、実質金利の上昇が設備投資や消費の抑制に働き、右下方向にシフトする。
逆に不況期には、失業率が上がり、総需要<総供給力なので物価上昇率は下がる。そこで金融政策を緩和すれば、実質金利の低下を通じて設備投資と消費が増え、左上方向にシフトする。こうした政策操作が可能ならば、物価の安定と雇用の最大化は短期では乖離(かいり)が生じても、中長期では金融政策というひとつの政策手段で実現可能だろう。
フィリップス曲線について理論面では、経済主体が合理的に将来を予想して行動する限り成り立たないとする「ルーカス批判」が1970年代に提示されたが、90年代にニューケインジアン学派が価格の粘着性を想定すると成り立つと再構築し今に至っている。
◇安定的なフィリップス曲線は幻
では、そのような安定的なフィリップス曲線が現実に存在しているのか。米国について50年以降を振り返ると、右肩下がりのフィリップス曲線が見られるのは、全体の4割前後の期間でしかない。70年代は物価高騰と失業率の上昇が併存するスタグフレーションが生じ、90年代はインフレ率と失業率が同時に低下する傾向にあった。2010年以降は低インフレ率のまま失業率が改善するというフィリップス曲線の水平化が起こっている。
日本でもフィリップス曲線は不安定だ。70年以降について図2を見ると、71~77年(▲と灰色の実線)は米国と同様にスタグフレーションが生じ、インフレ率と失業率の関係性は失われた。78~99年(○と灰色の点線)には右肩下がりの関係があるように見える。ところが00年以降(◆と黒の実線)ではほとんど水平化してしまった。右肩下がりの傾きが見られるのはやはり全期間の4割程度に過ぎない。97~98年の不良債権危機と不況を契機に日本の労働市場が賃金が上がりにくい構造に変化したことが、その後のフィリップス曲線の水平化の原因と考えられる。
このようなフィリップス曲線の不安定化は中央銀行にとっては頭の痛い問題だ。スタグフレーションの下ではインフレ率を抑制するために金融を引き締めると、不況が深刻化し失業率が上昇してしまう。また今日のようにゼロ%に近い低インフレ下でフィリップス曲線が水平化してしまうと、名目金利を下げることで実質金利を下げ、景気浮揚効果を出すことが困難になる。
要するにフィリップス曲線が安定的に存在しないことは、物価の安定を通じた雇用情勢の改善を困難にする。金融政策にとって「不都合な真実」なのだ。
これは言い換えると「インフレ率の安定化に適した金利水準」と「自然失業率の実現に適した金利水準」が中長期でも一致しないことを意味する。
雇用と物価、適した金利水準は違う
◇「適正な金利水準」は三つある
雇用統計を見る限り、現下の日本経済は人手不足で自然失業率にほぼ近い。12年第4四半期から17年第4四半期にかけ、正規雇用は116万人、非正規雇用は215万人も増え、18年1月の失業率は2・4%と極めて低い。
だが、消費者物価上昇率(生鮮食品を除く総合)は前年比でようやく1%(18年2月)であり、目標とされる2%に届かない。つまり、現在の金利水準は雇用の最大化には十分低いが、ほどよい物価上昇に適した金利水準は、もっと低いマイナス金利水準にあることを示唆している。
さらに厄介なことに「資産バブルを起こさない金利水準」が、もうひとつ違う水準として存在し、「ほどよいインフレ率の実現に適した金利水準<雇用の最大化に適した金利水準<資産バブルを起こさない金利水準」であることだ。この事実は80年代末の日本のバブル期も00年代の米国の住宅バブル期も、インフレ率は問題のない水準だったことが物語っている。
異なる三つの適正金利水準の存在は、現下の金融政策に関する意見対立を不可避にする。2%物価上昇率の達成を重視する論者は、現状の金融政策の維持ないしは強化を主張する。雇用を重視する者は、現行の金融緩和はもう十分なので出口に向かって調整を開始するよう唱える。そして資産バブル回避を重視する者は、このままではバブルになってひどいことになると語る。そのうえ、日本の財政赤字の持続可能性の問題に関する意見対立が絡んで四分五裂だ。
筆者自身は「条件付きリフレ派」であり、現行の「量的・質的金融政策」はそれまでの過度な円高と株安を是正し、雇用を回復する効果を上げたと評価している。しかし既にその効果、特に量的側面の効果は尽きており、微調整を始めるべきだと思う。具体的には、10年物国債利回りをゼロ%近辺に誘導するという金利目標と、年間80兆円の国債購入という量のコミットは矛盾するので、量のコミットを解除することから始めるべきだろう。
(竹中正治・龍谷大学経済学部教授)
◇たけなか・まさはる
1956年東京都生まれ。79年東京大学経済学部卒、東京銀行入行。東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)為替資金部次長、調査部次長、ワシントン駐在員事務所所長、国際通貨研究所チーフ・エコノミストを経て、2009年4月より現職。京都大学博士(経済学)。