◇がん免疫療法薬ブーム第二幕
◇業界、患者、投資家の夢の行方
花谷美枝/酒井雅浩/丸山仁見(編集部)
がん免疫療法薬が、がん治療に大転換をもたらそうとしている。既存の治療で治らない難治性がんでも効果が期待でき、手術、抗がん剤、放射線療法に次ぐ「第4の治療法」が世界を揺るがしている。2030年までに7・7兆円規模に急成長するとの見込みから、世界の製薬大手トップ10がこぞって開発競争に向かった。がん免疫療法薬ブームの第二幕に患者、投資家も熱い視線を送る。
がん免疫療法薬が効く仕組みは単純明快だ。
ヒトが本来備える免疫力で、がん細胞を破壊する。がんを物理的に取り除く手術をはじめ、放射線、抗がん剤の既存療法に比べ、患者の体への負担は相対的に軽い。従来と全く異なるアプローチの治療法だ。
ただ、ヒトの免疫機構にとって、がんは細菌やウイルスより手ごわい相手だ。がん細胞は免疫の攻撃をそらす機能を持っているからだ。
だが、がん免疫療法薬は、免疫が再びがんを攻撃できる環境を整えることができる。代表的な仕組みの一つが、免疫の攻撃を抑制する分子に働きかける「免疫チェックポイント阻害剤」(図1)だ。がん細胞は免疫の攻撃を避けられなくなり、破壊されてしまう。
また、抗がん剤は、がん細胞の変異に対応するため次から次に新しい薬を投入しなければならないが(図2)、がん免疫療法薬の効果は持続性に優れると考えられている。
◇治療のあり方を変える
多くのがんは進行して、手術による切除が不能になると、抗がん剤による延命治療しか打つ手がなくなり、完治は望めなくなる。だが、そんな末期患者に対しても、免疫療法薬は効果を発揮する可能性を秘めている。現在はすべてのがんが治るわけではなく、免疫療法薬が引き起こす副作用もあるが、九州大学の中西洋一教授(呼吸器内科)は、「(抗がん剤など)薬物療法のあり方が変わるかもしれない」と期待を寄せる。
がん免疫療法薬「オプジーボ」の生みの親で、がんが免疫を抑制する分子を発見した本庶佑・京都大学名誉教授は、がん治療の最初の段階から免疫療法薬を使えば、より高い効果を発揮できると主張する。手術、その次に放射線と抗がん剤というがん治療の流れを根本から変え、がんは薬で治る時代へ導く可能性を免疫療法薬は秘めている。
がん免疫療法薬の開発競争の第二幕は、あらゆるがんでの販売承認取得を巡る争いだ。
医薬品は、がんの種類ごとに販売承認を取得する必要があり、同じ薬でもがんの種類が異なれば、それぞれに臨床試験が必要。コスト面から見ても製薬会社の負担は大きい。
それでも、免疫治療薬「キートルーダ」を開発する製薬大手の米メルクは、約30種類のがんを対象に、270を超える臨床試験を進める。「一つの製品の臨床試験としては前代未聞」(米メルクの日本法人MSD広報)の規模で巨額の研究開発費を投じる。
「オプジーボ」を開発した小野薬品工業と米ブリストル・マイヤーズ・スクイブも、20種以上のがんで約100の臨床試験を行う。
各社が巨額の開発費を投じるのは、それだけ免疫療法薬の市場規模が大きいためだ。
クレディ・スイス証券は、がん免疫療法薬(免疫チェックポイント阻害剤)は30年までに、主要な製品のピーク時の売上高の合計は770億ドル(7・7兆円)に積みあがると予想する。オプジーボだけでも23年の売上高は160億ドルになり、15年の世界の抗がん剤市場(880億ドル)の実に2割にあたる。巨額の研究投資をつぎ込んででも、この市場を押さえる価値はある。
◇6・5倍に跳ねた小野薬株
がん免疫療法薬に沸き立つのは投資家も同じだ。
オプジーボ開発と足取りをそろえて小野薬品株は13年から値上がり始め、16年には4月1日の株式分割を経て、4月12日に5880円で株式分割後調整値ベースでの上場来高値を更新した。株価は13年年初比6・5倍に膨れ上がった。同じ期間の日経平均株価の値上がりは1・5倍、15年高値と比べても1・9倍。アベノミクス相場を上回るパフォーマンスは、オプジーボ効果に他ならない。
「こんな薬が効くならば、坊主になってやる」。オプジーボが開発段階だった07年、小野薬品の相良暁社長は、ある腫瘍内科医に言われた。だが、未知の領域に先行投資して得た果実は、がんの世界を変え、自社の企業価値も高めた。
がん免疫療法薬第二幕に乗り遅れまいと、遺伝子・細胞治療の分野でも研究が進む。そこで「第2のオプジーボ」と期待されるのが、日本のバイオベンチャー、タカラバイオの「CAR(カー)(キメラ抗原受容体)─T細胞療法」だ。
滋賀県草津市の「遺伝子・細胞プロセッシングセンター」。タカラバイオが「当社としてはびっくりする額」(遺伝子医療事業部門副本部長の木村正伸氏)という33億円を投じた。社運を懸けたプロジェクトの一つが、同施設でのCAR─T細胞療法の研究だ。
CAR─T細胞療法は、人工的に作成したCAR遺伝子を患者の血液から採取した免疫細胞に組み込む。遺伝子の運び役には無害化したウイルスを使う。遺伝子組み込みには、タカラバイオが開発したたんぱく質で拡大培養する独自技術を用いる。CAR遺伝子を組み込まれた免疫細胞は、がん細胞に特有の抗原に反応して、がん細胞への攻撃を再開する(図3)。タカラバイオはCARによる急性リンパ芽球性白血病治療の臨床試験を今年度中に始め、20年の承認取得を目指している。
欧米の製薬大手もCAR─T細胞療法の開発にしのぎを削る。先行するスイス・ノバルティスは、悪性リンパ腫の一つの非ホジキンリンパ腫や、急性リンパ性白血病でCARによる治験を進める。小児の急性リンパ性白血病は、発症1カ月で全患者が死亡する難病。CARによる治療で患者の7割から9割が骨髄移植に耐えられる状態に回復し、移植が実現して長期間生存している例が報告されている。ノバルティスは米国で16年中に承認申請する見通しだ。
◇高価な薬価の問題
ただ、患者、製薬会社、そして投資家の期待を集める免疫療法薬にも大きな課題がある。高価な薬価の問題だ。
オプジーボは平均的な体格の日本人男性(体重60キロ)が使用する場合、1回133万円、年間で約3460万円かかる。高額な薬価は製薬会社に利益をもたらし、株価を押し上げる一方、医療財政を圧迫する。
こうした状況を受け、国は薬価引き下げの新制度を導入し始めた。株式市場も「小野薬品の将来の業績は薬価の引き下げに大きく影響を受ける」(大和証券の橋口和明シニアアナリスト)と警戒する。新制度が薬価を下押しすると、製薬会社の経営計画を狂わせかねないと、業界は猛反発。また、薬価引き下げで新薬開発の意欲が削がれれば、患者が待ち望む新薬は遠のく。しかし、健康保険による負担で成り立つ高額な薬価は国民皆保険の持続性を損なうのも事実だ。
さまざまな期待と思惑の果てに、がん免疫療法薬の第二幕はどこへ行くのか。
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この記事の掲載号
定価:620円(税込)
発売日:2016年7月11日