◇黒田日銀の限界で急浮上
◇通貨が信認失い高インフレも
松本惇/黒崎亜弓/平野純一(編集部)
ベン・バーナンキ米連邦準備制度理事会(FRB)前議長の来日効果は絶大だった。
与党が勝利した参院選から一夜明けた7月11日、バーナンキ氏は黒田東彦日銀総裁と会い、翌12日には安倍晋三首相とも会談した。
バーナンキ氏は、ヘリコプターからお金をばらまくという比喩(ひゆ)から生まれた「ヘリコプターマネー(ヘリマネ)」政策の推奨者。「ヘリコプター・ベン」の異名を持つ。
英国のEU(欧州連合)離脱派が勝利した国民投票(6月23日)以降、マーケットでは円高・株安が進んでいたが、「何らかの形でヘリコプターマネー政策が行われるのでは」という思惑から、一転して円安・株高に。円は1ドル=100円台(7月8日)から、一時107円台まで下落。株価は1万5106円(同)から6営業日連続で上昇し、1万6000円台後半まで回復した。一方で国内債券市場ではヘリマネ政策による国債の増発観測が高まり、20年以上の超長期債を中心に価格は下落(金利は上昇)した。
バーナンキ氏は安倍首相に対しては「アベノミクスは大変な成果を残している。今のまま続けてください」と評価した。また、直接的に「ヘリコプターマネー」という言葉は出なかったものの、「金融政策と財政政策の両方を使えばうまくいく」「日銀には金融緩和の手段がまだいろいろ存在する」などと指摘したという。
ヘリマネは、増税などにより政府に回収されることのないお金を人々に配る政策の総称と考えられている。バーナンキ氏は、デフレ脱却のためには、政府が家計や企業に対する減税などで財政出動し、中央銀行が国債を買い入れるなどしてその財源を賄うことを以前から提唱している。中銀が国債を保有し続ければ、政府は借金を返済する必要がなくなり、負債を抱えずに財政出動することが可能になる。このような方法について、バーナンキ氏はヘリマネの考え方と同じだと認めている。
菅義偉官房長官は安倍・バーナンキ会談後の記者会見で、ヘリマネ政策について「検討しているような事実はない」と否定した。だが、関係者は「ヘリマネ的要素を持つ、金融と財政の一体的な政策は検討している」と話す。まさにバーナンキ氏の来日は、安倍首相が言う「アベノミクスのさらなる加速」を援護射撃するような形になったのだ。
ただし、ヘリマネ政策は政府にとってはまさに「麻薬」のような誘惑がある。何回も行われることになれば、人々の通貨への信認がなくなって高インフレを引き起こす可能性をはらんでいる。全国銀行協会会長の国部毅・三井住友銀行頭取はヘリマネ政策について「財政規律が失われるリスクがあるため、必ずしも好ましい政策ではないと思っている」と警戒感を示した。
◇ソロス氏注目の実験場
日本がヘリマネ政策を導入するか否かについて、海外からも大きな関心を集めている。
バーナンキ氏の来日により市場の関心が高まる2カ月以上前の4月末、米著名投資家のジョージ・ソロス氏は、自らのニューヨークの事務所で安倍政権に強い影響力を持つ政策アドバイザーと会っていた。ソロス氏側からの要請で実現したこの会談。ソロス氏は日本の経済政策の見通しを詳細に質問したという。
ヘリマネ推進論者のソロス氏は、政府が発行した国債を中央銀行が買い取って無利子の永久債に転換するなどのヘリマネ政策を提案しているアデア・ターナー英金融サービス機構(FSA)元長官とも懇意にしている。ソロス氏はこの会談の際、ターナー氏にも電話して意見を聞いたという。日本がヘリマネの導入を念頭に置いているかを確認する意図があったとみられる。
海外の学者やエコノミストの関心も高い。市場関係者は「デフレや高齢化の先進国である日本でヘリマネをやるとどうなるかが注目されている。日本は政策の実験場のようになっている」と話す。
関係者によると、安倍首相の経済ブレーンで前内閣官房参与の本田悦朗・駐スイス大使は、今年4月に米国でバーナンキ氏と面会したことを受け、安倍首相に対してバーナンキ氏に会うよう進言した。バーナンキ氏については、5月の伊勢志摩サミットに向けて政府が開いた「国際金融経済分析会合」に招くことも検討されたが、日程が合わなかったとみられる。
この会合では、ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ氏やポール・クルーグマン氏らが来年4月の消費増税の実施に否定的な見解を示し、その後の安倍首相の消費増税先送りの判断につながった。
2012年末に誕生した安倍政権はアベノミクスを推進。翌年1月には日銀がインフレ率2%の目標設定を受け入れる代わりに、政府が財政健全化と構造改革に取り組むとする「共同声明」を発表し、13年4月から異次元緩和が始まった。生鮮食品を除く消費者物価指数(コアCPI)は上昇し、消費税を5%から8%に増税した14年4月には前年同月比1・5%に達した。
しかし、消費増税による買い控えからその後は下落。日銀の追加緩和(14年10月)や、10%への消費増税の1回目の延期(同11月)も奏功せず、今年2月のマイナス金利導入も効果はなかった。
さらに今年6月には、政府が消費増税の2回目の延期を決定。20年度の基礎的財政収支の黒字化目標は維持したものの、欧州系格付け会社のフィッチ・レーティングスは「財政再建の公約に対する信認が低下した」として日本国債の格付けの見通しを「安定的」から「弱含み」へ引き下げた。
7月の参院選は与党が勝利し、安倍首相は「アベノミクスをしっかりと加速せよということだと思う。大胆な経済政策を策定していきたい」と述べ、経済政策に重点的に取り組む方針を強調した。政府は秋の臨時国会に、20兆円規模の補正予算案を提出する見通し。当初は10兆円程度と伝えられていたが、さらに膨らんだ。ただ、景気低迷による税収の頭打ちで財源不足になるのは明らかで、政府が借りたお金を民間に低利融資する財政投融資を活用するほか、公共事業などに使途を限定した建設国債を追加発行する方針だ。
◇日銀が抱えるジレンマ
このように政府は財政再建から財政出動にかじを切ろうとしている。さらに日銀の金融緩和政策との協調を進めようとすれば、ヘリマネの領域に足を踏み入れることになる。
ただ、同志社大学大学院の浜矩子教授はヘリマネについて真っ向から反対する。「ヘリマネ政策とは中央銀行が強力な財政ファイナンスを行うということ。それは政権が独裁体制につながる恐れを持つ。安倍首相は防衛費を増やしたいと言っているわけだが、中央銀行が政権がやりたい放題にできるカネヅルになってしまうと、戦争ファイナンスにも使われかねず、国民の人権が奪われることにつながる。中央銀行の独立とは民主主義の最後の防波堤という意味もある」と話す。また、あるメガバンク幹部は「安倍首相の本当の目的は憲法改正。国民の支持が必要なため経済対策に力を入れているふりをしているのではないか」と懐疑的だ。
日銀が6月に発表した資金循環統計(速報)によると、今年3月末時点の日銀の国債等保有残高は364兆円で、保有主体としては最も多く、割合も過去最高の約34%に上る。年間80兆円のペースで国債の買い入れを続けると、近い将来、限界に達するのは目に見えている。一方で現在の経済実態に鑑みれば、ベースマネーを減らすこともできず、日銀はジレンマを抱えている。
補正予算案の取りまとめは7月中がめどで、追加緩和が取りざたされる日銀の金融政策決定会合は7月28~29日に開かれる。行き詰まった金融緩和政策を打開するためにヘリコプターマネーへの道筋をつけるのか。真夏の判断に国内外の注目が集まる。
(『週刊エコノミスト』2016年8月2日号<7月25日発売>22~26ページより転載)