◇成長の限界が生んだ「怪物」
片山杜秀(評論家)
1945年の夏、日本は戦争に敗れた。他国の軍事的脅威になりえない日本。近代民主主義に立脚する日本。そんな国に生まれ変われないかぎり、独立の回復も国際社会への復帰も認められない。それがポツダム宣言の内容だった。
日本は努力した。新憲法を基に民主主義国家を建設した。敗戦の悲惨な経験をもう二度と繰り返したくない。何百万もの日本人が犠牲になった。その反省が戦後の基礎にならなければならない。憲法が米国の押しつけだったとしても、その中身を日本人の多数派は自らの意思で支持してきた。
だが、新憲法に支えられた戦後民主主義は、いま、根底から揺り動かされている。揺り動かしているのは、現実主義という名の怪物だ。平和主義と基本的人権の尊重、そしてもちろん国民主権。この日本国憲法の骨子を、現実主義がへし折ろうとしている。
◇軽んじられる「人権」
まず平和主義。日本国憲法は、平和と正義を愛する世界の諸国民を信頼しつつ、日本が積極的に戦争を放棄し、戦争をするための軍隊も有さないとうたっている。ただし、個人になぞらえれば正当防衛の権利まで捨てることを意味せず、必要最低限の武力を備えても構わないとされた。
必要最低限の武力を決める上で決定的役割を果たすのが日米安全保障条約だ。いざというとき、米軍が出動する準備が整うまでは日本が自力で国土を守る。それに必要と想定される武力が必要最低限の武力。戦後の自衛隊の規模や編成を決めてきたのはそんな理屈だった。憲法第9条の枠内にとどまっているように見える。
けれど現実はもはや違うと、現実主義者は言う。米軍は圧倒的ではなくなりつつある。加えて中国の軍事的拡大路線と北朝鮮の核武装の問題がある。日本が米国に協力を求めるなら従来以上の代価を支払わねばならない。自衛隊は専守防衛だけでなく海外でも米軍等を助けるべきだ。憲法の平和主義の立て付けは日米安保体制の継続のためには不適になりつつある。だから解釈改憲が行われ、それに伴う新法制ができ、解釈にとどまらない本物の改憲も志向される。それが現実的だという。
次に基本的人権の尊重。個人が自由にふるまえ、財産は守られる。さらに人権とは人間らしく生きる権利だから、老人や傷病者や子供、失業者などに厚く手当てがなされねばならない。右肩上がりの経済が福祉の財源を生み出し、福祉の質を高めてきた。国民の世代構成も高齢者をその他の世代が支えられる範囲内だった。ところがその前提が崩れた。
日本に限らず高度資本主義国は、成長のモデルが見つからなくなってきた。資本と労働力の振り向け先が見えにくい。おまけに少子高齢化。公共が国民に厚い福祉を施せる状況でなくなってくる。人権も軽くなってゆかざるをえない。自民党の改憲案で、自助や共助、家族の助け合いが重視されているのはそのせいだろう。日本は「中福祉国家」と呼ばれてきたが、低福祉への切り下げに向かわざるをえない。
人権は別の面からも脅かされる。日本列島は何千年かに一度の大規模な地殻変動期に入っていると言われる。周辺国からの軍事的脅威もある。国土が戦場となったり大災害に襲われたり、あるいは破局的テロに見舞われた場合、国家がフリーハンドで超法規的にふるまえないと想定外の事象には立ち向かえない。ここに基本的人権のもろもろを一時的に停止させる「国家緊急権」を憲法に盛り込むべく改憲すべきという方向が立ち現れてくる。災害と戦乱の時代の現実主義というわけである。
◇民主主義が「邪魔者」に
国民主権という日本国憲法の根幹さえ現実主義の名のもとに脅かされる………
(『週刊エコノミスト』2016年8月30日特大号<8月22日発売>88~89ページより転載)
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