特集:まる分かり
北方領土&ロシア
◇過熱する期待にクギ刺すロシア
◇経済協力は日本の“切り札”
日本とロシアの北方領土交渉が世間の耳目を集め出した。仕掛けたのは安倍晋三首相本人かもしれない。
1956年の日ソ共同宣言調印から60周年の節目となる今年、安倍首相は地元である山口県の長門市で12月15日、ロシアのプーチン大統領と首脳会談を予定する。安倍首相はプーチン大統領との個人的な信頼関係を武器に、長年の膠着(こうちゃく)状態に突破口を開けたい意向だ。
「北方領土2島返還が最低限 政府、対露交渉で条件」(9月23日付『読売新聞』)。「北方領土でロシアとの共同統治案 政府検討」(10月17日付『日本経済新聞』)──。新聞だけでなく週刊誌でも「北方領土が本当に戻ってくる!」(10月17・24日号『週刊ポスト』)などと刺激的な見出しが躍り、北方領土交渉の進展にメディアが大きな期待を寄せる。
契機となったのは、今年5月のロシア南部の保養地ソチでの日露首脳会談だ。安倍首相はプーチン大統領に対し、「新しいアプローチ」で平和条約交渉に臨むことを提案し、プーチン大統領と一致した。新しいアプローチとは、今までの発想にとらわれず、グローバルな視点を考慮して未来志向で取り組むこととされるが、それ以上の具体的な情報はない。双方が受け入れ可能な解決策に向け、これまで北方領土を「固有の領土」と主張してきた日本が、何らかの立場の変更を示唆するのではないか──。そんな臆測が飛び交っているのだ。
◇柔軟姿勢を望む声強く
日本の世論も変化しつつある。
北海道の高橋はるみ知事は10月31日、安倍首相に北方領土の返還促進を要望した際、記者団に「4島の一括返還が基本方針」としながら、「戦後71年を経過しており、一歩でも確実に前進してほしい」と訴えた。一緒に要望した元島民団体の脇紀美夫・千島歯舞諸島居住者連盟理事長も「どういう形であろうと、とにかく今より前進してほしい」。早期解決に向けて交渉に柔軟な姿勢で臨むよう求める声は強まっている。
高まる日本側の期待に対し、ロシア側からはクギを刺す発言が漏れる。
プーチン大統領は10月27日、ソチで開かれた外交専門家グループの「バルダイ会議」で、日露の平和条約締結について「(いつまでにという)期限を明確にすることは不可能であり、有害ですらある。ロシアと中国は国境問題の解決に40年をかけたが、日本との間にはまだ、その水準に達する高度な信頼関係は構築できていない」と語った。また、来日したプーチン大統領側近のマトビエンコ上院議長も11月1日、北方4島について「(日露間で)島を引き渡すような議論はしていない。ロシアの主権は変わらない」と強調した。
ロシア政治に詳しい新潟県立大学の袴田茂樹教授は「プーチン大統領は(14年3月の)クリミア併合で、失った領土を取り戻した大統領として支持率を高めた。領土問題で簡単に譲歩するわけはない」と厳しい見方を示す。だが、ある日露外交の専門家は、ロシア側の発言を額面どおりには受け止めない。「交渉の始まる前の段階で、これまでの主張を自ら取り下げることなど考えられない」からだ。マトビエンコ上院議長は日本滞在中、安倍首相を表敬訪問しており、12月の首脳会談に向けた地ならしの意味もあるとされる。「まったく交渉する気がないなら、そもそも日本に来るはずがないのではないか」と交渉の進展に期待を寄せる。
◇エネルギーなど協力要望
平和条約交渉でカギとなるのが、日露の経済協力の行方だ。安倍首相は今年5月の日露首脳会談で、(1)健康寿命の伸長、(2)快適・清潔な都市づくり、(3)中小企業交流・協力、(4)エネルギー、(5)産業多様化・生産性向上、(6)極東の産業振興・輸出基地化、(7)先端技術協力、(8)人的交流──の「8項目」の経済協力を提案。これを受け、ロシア側は経済発展省が50項目、極東発展省が18項目の延べ68項目にわたる具体的なプロジェクトを要望した。ロシア経済分野協力担当を兼務する世耕弘成経済産業相は11月2~6日、ロシアを訪問し、経済発展省などと経済協力の具体化を進めている。
共同通信によると、ロシア側から要望されたプロジェクトでは、北極海に面するギダン半島での液化天然ガス(LNG)開発や極東ハバロフスクの空港改修(新ターミナル建設)などエネルギー、インフラ整備を中心に、極東での医療センター整備や日露農業基金の設立といった幅広い分野にわたる項目を列挙。北海道─サハリンの大陸横断鉄道建設やガスパイプラインの敷設など、壮大なプロジェクトも含まれる。ただ、ロシア極東発展省は10月25日、18項目のプロジェクトの事業規模が総額で1兆ルーブル(約1・6兆円)超になると発表したが、今後も事業規模はさらに膨らむ可能性がある。ある経済関係者は「とても経済合理性に見合わないプロジェクトも含まれる。あえて高いボールを投げてきているのではないか」と眉をひそめる。
日本側も国土交通省が今年9月、ロシア運輸省と極東での港湾整備の覚書に署名し、極東ウラジオストクそばのボストチヌイ港の石炭の積み出し施設拡張などを支援する構えだ。また、金融庁は10月中旬、メガバンクとの定期交流の中で、ロシア向け融資を支援する方針を示した。欧米はウクライナ問題を受けロシアに金融制裁を続けており、融資にちゅうちょする邦銀の背中を押したい意図がにじむ。政府系の国際協力銀行(JBIC)は今年7月、ロシア最大手のズベルバンクに約40億円を融資した。
◇新たな成長フロンティア
日本からロシアへの進出企業は約250社とここ数年、横ばいが続き、インド(約1200社)、ブラジル(約540社)などに比べても少ない。財務省の貿易統計によると、ロシアから日本への輸入は15年、原油・粗油の価格下落によって約1兆9050億円にとどまり、過去最高だった14年から3割弱もの大幅減。また、日本からロシアへの輸出も、ロシアの景気停滞を受けて約6180億円と前年比で3割超も減少した。輸出額の水準はベルギー(約6200億円)よりも少なく、ロシアは日本に隣接する人口1億4650万人もの大国ながら、経済関係は停滞しているのが実情だ。
しかし、シベリアなど極東には原油や天然ガスなど豊富な天然資源が存在する。日本がこれらを活用できれば、エネルギーの調達先の多様化につながり、原油の8割を輸入する中東への依存度を下げることもできる。極東開発が進んで成長すれば、日本から機械や自動車など輸出を伸ばす余地も生じる。ロシアとの経済関係の活性化は、人口減少に悩む北海道経済の起爆剤ともなりうる。日露関係に刺さっていた“トゲ”を平和裏に抜き去り、経済協力を進展させることは日本にとってもメリットが大きい。経済協力は北方領土と引き換えの材料などではなく、日本にとっての大きな“切り札”なのだ。
戦火を交えず領土が取り戻せれば、歴史上も稀有(けう)なケースとなる。北方領土問題で早期解決への道筋を描き、新たな成長のフロンティアを開拓できるか、首脳会談に向けて両国の覚悟と知恵が問われている。
(桐山友一 稲留正英=編集部)
特集 まる分かり北方領土&ロシア 記事一覧
過熱する期待にクギ刺すロシア 経済協力は日本の“切り札” ■桐山 友一/稲留 正英
シベリア鉄道の北海道延伸
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