◇命より大切な仕事はない
◇長時間労働が企業を潰す
「命より大切な仕事はない」
電通の新入社員で2015年末に過労自殺した高橋まつりさん(当時24歳)の母幸美さんの言葉だ。異を唱える人はいないだろう。
しかし日本社会は、長時間労働を許容し続けてきた。
厚生労働省の統計では、15年度の過労自殺(未遂含む)の労災申請数は199件で、認定数は93件だった。だが、それはごく一部でしかない。内閣府によると「勤務問題」を原因の一つとする自殺は15年、2159人に上った。
◇理性的な判断ができない
過労自殺について「命を絶つくらいならなぜ、退職しないのか」という疑問を抱くかもしれない。イラストレーターの汐街(しおまち)コナさんが、10月末に短文投稿サイト「ツイッター」に投稿し、話題になったマンガがその答えを教えてくれる。
「昔、その気もないのにうっかり自殺しかけました」で始まるそのマンガは、月に100時間残業をしていた時、地下鉄の駅ホームで「今一歩踏み出せば、明日は会社に行かなくていい」と思った自分の体験を紹介。「『死ぬくらいなら辞めればいいのに』と、思う人は多いでしょうが、その程度の判断力すら失ってしまうのが恐ろしいところなのです」と訴える。
追い込まれていく心境を、崖に挟まれた細い道を歩いている状況に例えた。通常は「休む」「退職」「サボる」などの道や扉が見えるが、真面目な人ほど「親に心配をかけたくない」「同僚はもっとがんばっている」とその道を塗りつぶしてしまう。長時間労働で思考力を奪われ、壊れたように歩くことしか考えられなくなり、限界を超え、崖から落ちる──。
心療内科医は「本人は切迫すると理性的に判断できなくなる。若い世代の1人暮らしが増えている今、職場の同僚や上司が支えることが求められている」と指摘する。
汐街さんはマンガで「『まだ大丈夫』のうちに判断しないと判断自体ができなくなってしまいます」と勧め、「世界は本当に広いのです 忘れないでください」と強調した。
◇自分の、人の異変に気づくには
では、「まだ大丈夫」のうちに判断するために、どうすればいいのだろうか。過労によるうつ病などの精神疾患を未然に防ぐためには、まず自覚症状をチェックする。「睡眠」「食欲」のほか、喉はストレス症状が出やすく、声が出なくなることもある。
ただ疲れがたまっている、という場合がほとんどだが、長引くようなら注意だ。「人は自分のことには『最近忙しかったから』など理由付けて解決した気になるが、深刻になる前に対策を取ることが肝心だ」(精神科医)という。周囲の支えが重要な理由もここにある。
自分の異変に気づいたら、職場以外の信頼できる人に状況を説明する。職場のことを知らない人に説明するためにはしっかり整理しなければならず、自分を客観視することができる。また同僚、家族、友人が毎日声をかけることで変化に気づきやすい。本人が悩みを打ち明けるきっかけにもなる。
企業の産業医を務める心療内科医は「心身ともに優れない時に会社にいいイメージを持てるはずはない。会社を休んで、ゆっくり考える時間を作るべき」と助言する。
そもそも、長時間労働やハラスメントが横行している「ブラック企業」に入社しないことが望ましい。千葉商科大学国際教養学部専任講師の常見陽平さんら労働問題の専門家でつくる「ブラック企業対策プロジェクト」は、就職活動時に注意すべきポイントをまとめている。サイトからPDFでダウンロードができる。
◇繰り返される罪
電通には、過去にも過労自殺者を出した「前科」がある。
入社2年目の男性が1991年8月、長時間労働によりうつ病にかかり、首つり自殺した。両親が電通に損害賠償を求めた訴訟で最高裁は00年3月、「上司は健康悪化を認識しながら負担を軽減する措置を取らなかった」と認定。過労自殺について会社の責任を認めた初の最高裁判決となった。
この裁判で電通側は「自殺と長時間労働に因果関係はなく、自殺を回避する安全配慮義務もない」と責任を否定。同居していた両親に対し「生活状況を把握していた両親の保護責任が優先する」とまで主張した。
高橋さんは自殺する1カ月半前の15年11月6日、この事件について記載した民間団体のホームページへのリンクを貼り付け「これと全く同じ状態です」とSNS(交流サイト)に書き込んでいる。電通の社風は、その時からまったく変わっていなかったのだ。
ただし、電通だけが特別なわけではない。国が悲惨な過労自殺を認定しながらも企業側はわが社のことと受け止めず、自殺を「本人」の問題とし、真摯(しんし)に向き合ってこなかった。そもそも長時間労働を問題とは認識していない。長時間労働を是正する立場の厚労省など国の官僚や、過労死が起きた企業を批判するマスコミもまた、長時間労働の職場環境にある。
しかし、時代は大きく変わった。高橋さんの過労自殺を受け、厚労省東京労働局などは11月7日、電通の本社と3支社を労働基準法違反容疑で家宅捜索した。10月に同法に基づく「臨検」と呼ばれる抜き打ちの立ち入り調査に着手し、労務管理資料の分析を続けた。
その結果、長時間残業が横行していた疑いが強いとみて、任意提出では得られにくい違法な長時間残業の証拠を集めるため、異例の強制捜査に踏み切った。是正勧告(行政指導)にとどまらず、法人としての電通と人事責任者らを書類送検して刑事処分を求める模様だ。
電通は13年にも当時30歳で病死した男性が過労死と認定されたほか、繰り返し長時間労働の是正勧告を受けたにもかかわらず、改善されていない。労働基準監督官OBは「何度も繰り返され、自浄作用はない。一罰百戒と長時間労働の是正に本腰を入れ始めた」と指摘する。
労働政策に携わってきたシンクタンク研究員は「氷山の一角だとしても、明らかになり、これだけ大きな騒ぎになるということが、社会が変わりつつある証拠だ」と指摘する。
◇レッテル貼られたら最後
ところが、それでも官邸や企業側は、長時間労働が常態化する状況を変えようとするどころか、さらに強化する方向にかじを切ろうとしている。
働き方改革では、事実上無制限の残業を認めている労働基準法36条に基づく「36(さぶろく)協定」の見直し議論が進んでいる。残業時間の上限規制にどこまで踏み込むかが焦点だが、具体性のある規制に至るかどうかについては懐疑的だ。経済界から「決算など繁忙期に配慮した設定をしてほしい」と弾力的な運用を求める意見が出ているほか、上限を設ける代わりに「適用除外」の業種を増やすよう求めている。適用除外が増えれば新たな「抜け穴」ができるだけだ。
上限規制の「交換条件」として用意されたのが、高収入で専門的な業務について、労働時間規制から除外する「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入だ。実際に働いた時間と関係なく、あらかじめ1日当たりの労働時間(みなし労働時間)を定める。時間に縛られず自由に働けるようになり、適用される労働者にとっては、残業の上限規制どころか撤廃となる危険をはらむ。「残業代ゼロ法案」と批判されるゆえんだ。
ホワイトカラー・エグゼンプションについて安倍晋三首相は「能力を発揮できる新しい労働制度を選択可能とするものだ」と述べ、意欲を示す。
多くの企業を顧問先に持つ大手法律事務所の弁護士は、経営者の思いを代弁する。「生活の質の向上に当たって、仕事は悪いことではない」
会合で、ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)について話題に上った時だ。東証1部上場企業の経営者が「この言葉は、生活は楽しくて、仕事は苦で少ないほうがいい、という発想が気に入らない」と発言すると、賛同する意見が相次いだ。つまり「四の五の言わず、とにかく働け」というのが、いまだに経営者のホンネなのである。
だが、そうした経営者は時代錯誤としかいいようがない。そんな考えでは企業は存続不可能だ。少子化による労働力減少で、いまや人材確保が企業の最重要課題となっている。
慢性的な長時間労働が「当たり前」という風潮が残る企業には、共働きが当たり前で、家事や育児、介護を夫婦で分担するこれからの世代は入社しない。高橋さんの遺族代理人を務めた川人博弁護士は「今回の痛ましい事件を受けてなお、ホワイトカラー・エグゼンプションなど労働強化につながることを進めることはできないだろう。長時間労働を助長する法律はよくないと国民に広がったのではないか」と話す。
川人弁護士が「優秀な人材は、電通に集まらなくなるだろう」と指摘するように、「ブラック企業」と一度レッテルを貼られたら最後。優秀な人材を採用するのは困難だ。何も、電通に限ったことではない。
(酒井雅浩、大堀達也・編集部)
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命より大切な仕事はない 長時間労働が企業を潰す ■酒井 雅浩/大堀 達也
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