FTPL(Fiscal Theory of the Price Level、物価水準の財政理論)に日本でいち早く着目していたのが、早稲田大学大学院経営管理研究科の岩村充教授だ。FTPLがにわかに脚光を浴びる現状をどう見るか、岩村教授に聞いた。
(聞き手=黒崎亜弓・編集部)
── FTPLとは何か。
岩村 国の財政の先行きを人々がどう見るかによって、物価水準が上下するという理論だ。根底には、国は、資金調達が自国通貨建てであるならば、倒産しないことがある。そうした国では、財政力が極端に低下しても、倒産の代わりにインフレが起こって実質的な債務負担が低下し、それで済んでしまう。つまり政府債務の時価を物価水準が調整している。
政府の将来税収と支出との関係を、中央銀行を含めたバランスシートのイメージとして図1に示した。
政府は将来にわたって税金を徴収し、公共サービスの支出に充てながら国債の元利払いを行う。その国債の一部を中央銀行が保有し、中央銀行は国債を見合いにして銀行券を発行している。政府と中央銀行を一体として考えると、将来的な税収と支出の差(財政余剰)が、市中保有の国債と銀行券の信用を支えている。
財政余剰、すなわち政府の信用が貨幣価値のアンカーであり、貨幣価値を裏返したものが物価だ。
◇財政への“見方”がカギ
── 財政拡張、あるいは財政再建が物価を動かすのか。
岩村 物価水準を上下させるのは、財政赤字などの数字の変化ではなく、人々の財政運営への「見方の変化」だ(図2)。
貨幣価値を支える財政余剰とはあくまでも予想なので、税制や行財政改革といった政府のコミットメントに基づいて人々が考える税収と支出の差であることに注意してほしい。
財政再建が進むと人々が見れば差が大きくなり、財政赤字が膨らみ続けると人々が見れば小さくなる。
── FTPLに着目した端緒は。
岩村 2000年代初めに、なぜ日本がバブル崩壊後にデフレから抜け出せないのかを考えていた。金融政策では物価を支えられない状況にあった。名目金利がゼロまで下がると、貨幣供給量を増やしても、銀行券の金利がゼロであるため、その需要が無限大となって名目金利は下がらなくなるという「流動性の罠(わな)」に陥っていた。こうした状況で、日銀に対し「貨幣供給量を積極的に拡大せよ」と催促する声が強まっていた。
しかし、日銀が国債をどんどん買えば、それだけで物価が上がるのだろうか。中央銀行と政府を一体として見ると、そう簡単にはいかないのではないかと、日ごろから議論を交わしていた渡辺努東京大教授(当時・一橋大教授)に話すと、「それは海外でFTPLと呼ばれ始めた新しい考え方だ」と教えてもらった。そこで、一緒にこの理論で当時の状況を分析し始めた。
── 00年代初め、FTPLは海外でどのように扱われていたのか。
岩村 私たちが調べた限りでは、財政と物価の関連に最初に着目したのは、米国の経済学者のトーマス・サージェントとニール・ワラスだ。1981年に論文を発表している。
サージェントたちは、貨幣量さえ決めれば物価が決まるとするマネタリストは、財政の役割を見落としているのではないかと鋭く指摘した。ただ、論文の「Some Unpleasant Monetarist Arithmetic」(マネタリストにとっては少々不愉快な算術・編集部訳)という皮肉なタイトルもあってか、当時は敬遠されたようだ。
FTPLが現実を説明する理論として注目されたきっかけは、97年のアジア通貨危機だろう。貨幣が増発されたわけではなく、物価上昇は将来債務が増大するとの予想から起きたと解釈できた。
◇金融政策は先送りの手段
── FTPLでは物価を決めるのは金融政策ではないということか。
岩村 FTPLで財政運営への見方が決めるのは物価そのものでなく、あくまで物価の水準(Level)だ(図2)。その水準に基づき、現在から将来にかけて時間軸のなかで物価を位置づけるのが名目金利だと私たちは考えた。金利の上下により現在地点の物価が動いて、将来に向けた「坂」ができる(図3)。金融政策は名目金利に働きかけて、「坂」を生み出す。
金融政策で名目金利を上げると、現在と将来を通じて見た物価の水準自体は一定なので、現在の物価には抑制効果が生じるが、反対に将来の物価にはインフレ圧力を生じさせてしまう。要するに金融引き締めはインフレ圧力の先送りというわけだ。
ちなみに、流動性の罠にはまっている日本では、名目金利はゼロ限界に行き着いているので、物価の「坂」を生み出す金融政策は、金利を上げてインフレ圧力を先送りするのには使えても、肝心のデフレ圧力に対しては、もう金利は下げられないのだから先送りの効果すら発揮できないというのが私たちの結論だった。
── 金融政策をそのように捉えたのは、なぜか。
岩村 FTPLに名目金利の効果を組み合わせるのは、期待インフレ率を通じて名目金利が自然利子率と連動するという「フィッシャー等式」に基づく。
「名目金利≒自然利子率+期待インフレ率」というものだ。
米国の経済学者、アーヴィング・フィッシャーは、名目金利は貨幣の現在と将来の交換比率、自然利子率は実質財の現在と将来の交換比率なので、両者の比率は期待インフレ率、すなわち貨幣と実質財との交換比率の現在から将来にかけた変動に一致するはずだと導き出した。
ところが、この等式を単純に読むと、名目金利を下げると物価は下落するというようで、金融緩和でデフレに対応するという私たちの実感と矛盾する。
そこで、物価の「水準」を上下させるのが財政への見方で(図2)、「坂」を動かすのが金融政策(図3)とすると矛盾は解消されるというのが私たちの整理だった。金融政策の役割とは、物価に加わる圧力を、現在から将来にかけて分散させることに過ぎないわけだ。
── それはFTPLを基に発展させた独自のモデルなのか。
岩村 財政への見方が物価の水準を上下させるというFTPLに、名目金利の効果を組み合わせたのは、私たちの貢献といえば貢献かもしれない。ただ、02年から出した論文はFTPLというだけで際物扱いされて良い反応は得られなかった。私はもっとわかりやすく説明したいと思い、一般書でこの話を書いてきた。
◇金利を上げてインフレに
── そのモデルに基づくと、13年以降の日銀の異次元金融緩和では物価がどう動いたと読み解けるのか。
岩村 金融緩和の影響はほとんどなかっただろう。今は流動性の罠に陥っているため、金融政策で現在の金利を下げて将来から物価上昇を前借りしてくることができない。緩やかなインフレ期待を作り出すという狙いは、まるで達成できていない。
異次元緩和が始まった13年4月以降に物価が上がったのは、黒田東彦日銀総裁の就任直前に安倍晋三政権が発足し、財政出動に積極的な姿勢から赤字が拡大するとの見方が強まったことが影響したと考えられる。一種のFTPL効果だっただろう。起こったのは財政への予想が不連続に変化したことによる、物価のジャンプアップ(貨幣価値のスリップダウン)だったのではないか。
物価の「坂」への予想は変化しなかったため、物価の持続的な軟調という意味でのデフレ期待には効果は及ばなかったように見える。
── 今、日本でFTPLが注目され始めたのはなぜだと思うか。
岩村 近年、米国も流動性の罠にはまり、米国の経済学者たちは米国の状況を分析するなかでFTPLに行き着いたのではないか。米国でFTPLの存在感が増すのを見て、日本でも注目されているように見える。
── FTPLに基づき、デフレ脱却のため、財政拡張を金融緩和と併用すべきだという意見があるが、どう見るか。
岩村 単に減税や政府支出の拡大で財政拡張したとしても、人々が政府はいずれ増税するはずだと考えてしまえば、財政への見方は変わらず、現在と将来を通じて見た物価の「水準」には影響がない。金融緩和も、流動性の罠のもとでは、物価の「坂」に働きかけることができない。
多くの人は、政府が財政拡張する時には、金融政策は歩調を合わせて緩和すべきだと考える。しかし、緩やかな物価上昇、つまりインフレを取り戻したいのであれば、それに対して私たちのモデルが出している答えは、将来の増税を予想させない財政拡張と、金融引き締め(名目金利の引き上げ)との組み合わせだ(図4)。財政拡張と金融緩和との組み合わせでは、物価のジャンプアップは作り出せても、緩やかなインフレとはならないはずだ。
◇“無責任な政府”の難しさ
── 「増税を予想させない財政拡張」とは、政府に「無責任になれ」と言っているように聞こえるが。
岩村 単に「無責任」というよりは「コントロールされた無責任」とでも言うのだろうか。政府が文字通り「無責任」になったと見なされれば、物価は際限なく上昇してしまう。その先は、いわゆる「ハイパーインフレ」だろう。政府の信用あるいは貨幣価値のアンカーを失ってしまう。
そうならないためには、起こっていることが「際限ない」ものではない、と誰にでも認識されていることが必須条件だ。それは簡単にできることではない。どうすれば貨幣価値のアンカーを失うことなく「無責任さ」をコントロールし、緩やかで持続的なインフレを作り出すことができるのか、その制度的デザインを具体的に示すのが財政拡張を唱える人の責任ではないだろうか。
── その「制度的デザイン」には、中央銀行が政府の財源を賄う「ヘリコプターマネー」は含まれるのか。
岩村 現状でも日銀が大量の国債を買い入れ、実質的にヘリコプターマネーの状況にある。責任ある状態とは言えないにもかかわらず、管理はなされていない。その意味では「コントロールされていない無責任」とも呼ぶべき状況だ。非常に危うい。
このまま無責任が際限なく進むよりは、言葉の印象は悪いが、「コントロールされた無責任」つまりは「慎重にデザインされたヘリコプターマネー」の方が、ましかもしれない。ただ、そこまでして「緩やかなインフレ」を追求する意味はあるのだろうか。議論が必要だ。
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いわむら・みつる 1950年生まれ。東京大学経済学部卒業。74年日本銀行入行。98年より早稲田大学ビジネススクール教授。関連著書・共著に『新しい物価理論』『貨幣の経済学』『貨幣進化論』『中央銀行が終わる日』など。
*『週刊エコノミスト』2017年1月31日号「シムズ論を読み解く」掲載