生命の設計図書き換えるゲノム編集産業が急拡大
世界最大の石油メジャー、エクソンモービルと米バイオベンチャーのシンセティック・ゲノミクス(SGI)は6月、藻類が作る油分の量を倍増させる方法を発見したと公表した。
藻類が作るバイオ燃料を化石燃料に代わる新たなエネルギーにするという遠大な計画のもと、エクソンモービルはSGIと共同研究の長期契約を2013年に締結。6億ドル(約690億円)を投じた。SGIは今回、藻類の体内で作られる油分が20%から40%に倍増するよう、藻類の遺伝子を改変したという。それを可能にしたのが「ゲノム編集」と呼ばれる技術だ。
「ゲノム」とは、生物の細胞核の中のDNA(デオキシリボ核酸)に含まれる、生物を形作るすべての遺伝情報を指す。DNAの中には、さまざまな遺伝子が収まっている。ゲノムを、あたかもワープロ上で文章を切ったり貼ったりするように編集する技術がゲノム編集である。
革新技術を“ビジネスの種”にしようとエネルギーや化学、製薬、食品分野のグローバル企業が巨額のマネーを投じ始めた。
◇25年のゲノム市場は85億ドル
米市場調査会社グランドビューは、15年に22・5億ドル(約2500億円)だった世界のゲノム編集市場の規模が、25年には85億ドル(約9700億円)に拡大すると予測する。
とりわけゲノム編集の恩恵が大きい分野が医療だ。
化学や食品企業に先行して、バイオ企業や巨大製薬企業によるゲノム編集への投資が進む。米バイオベンチャーの新規株式公開(16年)の時価総額を見ると、ゲノム編集を主力製品とする企業が2、4、6位に入り、3社の合計は約19億ドル(約2100億円)に上った。
医療関連企業がゲノム編集に注目する理由は、“生命の設計図”と言える「遺伝子」を自在に改変できるからだ。人間の病気の中には、遺伝子に異常を来して発病する遺伝性疾患が多数あり、それらは「人体の設計図」に原因があるため難治性のものが多い。したがって、根治には「遺伝子から治す」必要がある。だが、これは長らくサイエンス・フィクション(SF)の世界の話であると考えられてきた。遺伝子を“正確に改変”することが難しかったからだ。
遺伝子の改変と言えば、「遺伝子組み換え作物(GMO)」が思い浮かぶが、ウイルスや放射線を利用する組み換えは、成功まで何度も実験を繰り返さなければならず、意図しない遺伝子が置き換わるリスクもある。
このような不安定な技術は、医療では使い物にならない。予期できない悪影響で人命が失われる危険があるからだ。それゆえ遺伝子を正確に改変する技術が切望されていた。
それに初めて近づいたのが1990年代。「ジンクフィンガー・ヌクレアーゼ(ZFN)」というゲノム編集の登場だ。ZFNは、ゲノムの中の狙った遺伝子に取り付いて切断する活性(働き)を持つ、たんぱく質と酵素からなる。この技術は画期的だったが、作成には専門的な知識が必要で、遺伝子工学の研究者でも簡単に作れるものではなかった。
2010年には簡便性が向上した「ターレン」という第2世代の新技術が登場したが、作成難度は相変わらず高く、一つの遺伝子に対応するたんぱく質を作るのに数カ月かかる場合が多かった。使いにくいZFNやターレンは普及面で課題があった。
◇ノーベル賞有力の技術
その状況を一変させたのが12年に登場した第3世代「クリスパー・キャス9」だ。特定の遺伝子の狙った改変が、前世代の技術に比べ格段に容易になった。カリフォルニア大学のジェニファー・ダウドナ教授らと、米ブロード研究所のフェン・チャン博士が、相次いで論文を発表すると、研究開発が世界的に加速した。
クリスパー・キャス9の特長は、狙った遺伝子の探索に「ガイドRNA」という分子を使うこと。RNAはもともと、細胞内でDNAの情報を写し取る働きをする。その性質を利用するのだ。
探索の次は、狙った遺伝子を切断する「キャス9」という酵素の出番だ。ガイドRNAが結合した部分を、キャス9が切り取るのである。ガイドRNAの作成は容易で、遺伝子工学の基本知識があれば数日で複数の遺伝子に対応するガイドRNAを作成できる。この簡便さによって、クリスパー・キャス9は誰でも簡単に使える技術になった。
クリスパー・キャス9によって難治性の遺伝性疾患に治療の道が開かれ、10年以上かかっていた農水産物の品種改良期間が数年に短縮されつつある。発明者たちは早くもノーベル賞受賞の有力候補とされている。
◇“ボロ負け日本”の逆転の目
ゲノム編集および遺伝子治療に関する研究の論文発表数は、10年ごろから急増している。技術ごとの特許出願件数を見ると、特にクリスパー・キャス9の出願数が多い。
一方で、論文発表者が所属する研究機関や企業の国籍を見ると、米国が突出しており、日本は大きく水をあけられた4位に甘んじている。「日本はボロ負けだ」(シンクタンク研究員)。
実用化には「基礎研究とビジネスを結ぶベンチャー企業が必要」と指摘するのはゲノム編集に詳しい山本卓広島大学教授。欧米ではすでに遺伝子治療やゲノム編集のベンチャーが多数出ており、ビジネスを牽引(けんいん)している。
ただ、ゲノム編集を医療で安心して使うには、さらに精度や汎用(はんよう)性を上げる必要がある。日本の逆転の目があるとすれば、より使いやすい改良技術を生み出すしかない。
そこで、遺伝子切断酵素のキャス9の課題に着目、改良技術を基に医薬開発を進めているのが、日本のベンチャー、エディジーン(東京都中央区)だ。キャス9の課題の一つは、酵素のサイズが大きく、体内の特定の組織を通過できないために治療できない病気があることだ。
同社の森田晴彦社長は、濡木理(おさむ)東京大学教授らが開発した、キャス9よりも小さく、ガイドRNAの働きを助け、切断の精度の高い酵素を使うゲノム編集に注目。濡木教授とともに起業し、その「改良型クリスパー酵素」を武器に、米ボストンに設置した子会社で医薬品の開発を進めている。
現在、複数のパイプライン(開発中の薬品)が同時並行で進んでいる。「濡木教授はクリスパー・キャス9を発明したチャン博士とも長年のコラボレーター(共同研究者)。技術の独自性では海外を見てもライバルは見当たらない」と森田氏は自信を見せる。希少疾患からがんまで広い範囲で新薬の投入を目指す。
一方、遺伝子治療では、ゲノム編集ではないが、バイオベンチャーのアンジェス(大阪府)が注目されている。悪化すると足の切断を余儀なくされ、その後数年で亡くなる患者が多い難病「重症虚血肢」の治療薬を開発。今秋にも、治験段階で安全性が確認された薬を販売しながら有効性を確かめる「早期承認制度」を活用して承認申請を行う予定だ。
虚血肢は動脈硬化によって足の血行が滞るために起きる。同社は、足の筋肉に注入すると血管を新たに作る「HGFプラスミド」(プラスミドは遺伝子の断片)による根本的な治療法を開発した。治験では治療効果が出ているという。
同社の山田英(えい)社長は、「年間10万~20万人が虚血肢により足の切断手術を受けている米国でも、投入の準備を進めている」と意欲を見せる。
ゲノム編集の登場と遺伝子治療の進化によって、病は遺伝子で治す時代が到来する。
(大堀達也・編集部)
週刊エコノミスト 2017年7月25日号
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