日本経済が成長軌道に乗る前に、政府が財政を引き締めると「出口」どころか、金融緩和の成果を台無しにしてしまう。
野口旭(専修大学経済学部教授)
大方の予想通り、黒田東彦日銀総裁の再任が決まった。2%のインフレ目標を5年の任期中に達成できなかったにもかかわらず、続投が決まったのは、1990年代以来の長期デフレによって縮小均衡に陥っていた日本経済を正常な成長軌道に復帰させつつある功績を、安倍晋三政権が多としたからであろう。
バブル崩壊後の日本の金融政策を担ってきた三重野康総裁から白川方明総裁期までの日銀は、物価や資産価格の下落が深刻化する中でも、旧来的な金融政策運営に固執し続けた。日本経済はその結果、20年にもわたる恒常的なデフレに陥った。すなわち、賃金と物価は下落し、雇用は縮小し続けた。異次元金融緩和政策は、その日本経済の縮小トレンドを反転させ、適正な雇用と物価を伴う経済成長にようやく道筋をつけたのである。
現時点では、2019年度中が2%インフレ目標達成のめどとされている。日銀にとっての当面の最優先課題は、出口うんぬんというよりは、それを確実に実現させることである。とはいえ、その実現が視野に入ってくる段階となれば、これまで言及を避けてきた異次元緩和からの出口のための条件や手順を明確にしなければならない。
出口の最も基本的な条件は、2%インフレ目標が達成され、それが安定的に維持されることである。その焦点は、物価よりはむしろ賃金にある。というのは、実質賃金が労働生産性の上昇とともに改善していく正常な経済成長を実現するためには、名目賃金の伸びが、少なくとも労働生産性の上昇分だけ物価上昇を上回らなければならないからである。仮に労働生産性上昇率が1%とすれば、2%のインフレ経済における賃金上昇率は3%でなければならないということである。
日本経済は90年代末以降、物価が下落しつつ名目賃金がそれ以上に下落し、結果として実質賃金が低下し続けるという、文字通りの縮小均衡に陥った。それは何よりも、需給ギャップが拡大して雇用が悪化し続けたからである。しかし、この5年にわたる異次元金融緩和によって、需給ギャップは縮小し、完全失業率は直近で2・4%まで改善した。労働市場は既に完全に売り手市場となっており、物価上昇を上回る賃金上昇が実現される条件は整いつつある。
◇出口の心配は不要
仮に日本経済において、2%程度の完全失業率、3%程度の賃金上昇率、そして2%のインフレ率が安定的に維持される状況となれば、日銀もいよいよ出口に向けて動き出すことになる。その手始めはおそらく、現在の操作目標となっている10年物国債金利の引き上げである。あるいは、ゼロ金利目標の対象を10年物より短期にする可能性もある。しかし、それによって生じるのはイールドカーブ(利回り曲線)のスティープ化(同曲線の傾きがより急な右肩上がりになること)であり、長期金利の上昇なのであるから、その効果はほぼ同じである。
この出口に向けた最初の調整が円滑に遂行されれば、日銀はそれ以降、マイナス金利の撤廃、長期金利目標およびイールドカーブ・コントロール(長短金利操作、YCC)の撤廃、伝統的な政策金利であるコールレート(銀行間の短期金利)への操作目標の切り換えといった「正常化」のための措置を、順次具体化していくことになろう。しかし、それはおそらく、慎重の上にも慎重に行われることになる。
一部の専門家は、国債金利の上昇に伴う日銀や民間金融機関の財務悪化を、出口に伴うリスクとして指摘する。しかし、国債価格の下落に伴う日銀の損失は、国債を発行する政府にとっては利益となるため、日銀と政府をあわせた統合政府ではすべて相殺される。また、長期金利の緩やかな上昇は、金利低下による収益減少にあえいでいる現状の金融機関にとっては、むしろ恩恵であろう。要するに、出口リスクなるものはほとんど存在しない。
実は、日本経済にとってのより深刻かつ現実的なリスクは、早まった財政緊縮により日銀が出口に到達できないという、財政主導の経済のダウンサイド・リスクの方にある。
そもそも、長期金利をゼロ%前後に維持するという日銀の現在のYCC政策は、16年2月からのマイナス金利政策導入に伴う過度な長期金利低下を是正するために同年9月に導入されたものであり、単体では金融緩和効果を持たない。
他方で、長期金利を引き上げるのではなく抑制するという場合には、日銀は必ず国債購入を増やすことになる。つまり、YCC政策は、長期金利に上昇圧力が生じて初めて緩和効果を持つ。実際、16年11月の米大統領選挙でのトランプ氏の勝利によって米国の長期金利が上昇した時には、日本の長期金利にも上昇圧力がかかった結果、この受動的な金融緩和が実現され、日本経済には円安・株高がもたらされた。
YCC政策はこのように、「金融の緩和や引き締めの実現がもっぱら外的要因に依存する」という性質を持っている。その点はとりわけ、財政政策に対して重要な含意を持つ。端的にいえば、YCC下での一国の財政拡張は同時に金融緩和をもたらすのに対して、財政緊縮は必然的に「受動的な金融引き締め」をもたらすのである。
政府が緊縮財政を行えば、新規の赤字国債発行額が減るため、国債市場では金利に低下圧力が生じる。それを放置すれば、長期金利が再びマイナスとなり、金融機関経営を圧迫することになるため、日銀はその場合、国債購入を減少させる。事実、日銀による国債購入額は、17年に入ってから顕著に減少している(図)。それはおそらく、民間保有の国債残高が減少しつつあるのと同時に、日本の政府財政収支が増税や景気回復による税収増などによって「改善」したためである。
政府はこれまで、「経済成長と財政健全化の両立」や、先送りされはしたが「20年度までのプライマリー・バランス(基礎的財政収支)黒字化」をスローガンに掲げ、新規赤字国債発行の抑制のため、できるだけ財政に負担をかけない経済対策を目指してきた。それは確かに、財政再建にとっては適切な方針かもしれない。しかし、それは他方で、金融政策の効果を失わせてしまうというリスクを孕(はら)んでいるのである。
◇最大のリスクは消費増税
財政にかかわるさらに大きなリスクは、19年10月に予定されている消費増税にある。仮に上のような財政緊縮リスクが顕在化せず、19年度に2%インフレ目標が達成されたとしても、そこで待っているのはこの増税である。14年4月の消費増税は、順調に上昇しつつあった日本の物価を完全に腰折れさせた。それは明らかに、黒田日銀が5年を費やしても目標に達成できなかった原因の一つである。19年10月に消費増税が実行されることになれば、日銀は出口どころか、仕切り直し的な緩和継続を余儀なくされよう。場合によっては、黒田総裁の次の5年も「出口なし」になる可能性さえある。
振り返ってみると、黒田日銀の最大の失点は、総裁本人が口先で消費増税を再三再四後押ししたことにある。消費増税は結局、日銀のインフレ目標達成にとって最大の障害となり、異次元金融緩和政策の信頼性は大きく損なわれた。日銀の新たな執行部は、まずはその点を十分に総括しておくべきであろう。
◇のぐち・あさひ
1958年北海道生まれ。82年東京大学経済学部卒業、同大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授などを経て、97年から現職。著書に『アベノミクスが変えた日本経済』『世界は危機を克服する─ケインズ主義2.0』など。