◇Q&A グループの生い立ちと岩崎家
横山渉(ジャーナリスト)/編集部
「三菱」という会社はない。グループは約640社の「独立した企業の集まり」だというが、実態はどうなっているのか。
Q1 三菱マーク(スリーダイヤ)の由来は?
A 三菱創業者の岩崎弥太郎が、海運業の「九十九商会」の汽船で船旗号として使用したものが原型となっている。岩崎家の家紋「重ね三階菱」を、主君だった土佐藩山内家の家紋「三ツ柏」に模して、三つに分けて配置したと伝わっている。後に社名を「三菱」とするきっかけにもなった。スリーダイヤのマークを商標登録したのは1914年だ。
1887年創業の三菱鉛筆は、三菱グループではない。1901年に逓信省(現在の総務省)に納めた「局用鉛筆」(郵便局用の鉛筆)に三菱マークが入っていた。局用鉛筆は芯の硬度(濃さ)が3種類あったことと、創業者の眞崎家の家紋「三鱗」から三菱マークが生まれたという。商標登録は1903年と10年以上前だった。問い合わせが多いのか、三菱グループHPで「グループ企業ではない」と記載があり、三菱重工業創業の地、長崎造船所内にある史料館では、見学者に「三菱鉛筆はグループではないが、お互いを尊重してマークを使っていこうと合意している」と説明を加えている。
また、熊本市の乳製品製造販売業「弘乳舎」(1883年創業)は、1919年に商標登録された三菱とそのマークを使用している。その商標を冠した「三菱サイダー」は、1972年の発売開始以来、南九州で子どもから大人まで愛されている「甘さ控えめ、素朴で懐かしい味わい」が売りだ。弘乳舎も三菱グループと関連はない。
Q2 三菱グループ内で、「三菱」を名乗る会社とそうでない会社の違いは?
A 三菱の商号とマークは、「三菱社名商標委員会」が適切な使用を管理し、国内外の約400社が「三菱」を名乗っている。三菱グループは、かつての三菱財閥の流れをくむ企業が中心。しかしグループの主要企業ながら、社名に「三菱」がない企業もある。
「三菱」の有無は、歴史の古さや企業規模とは関係ない。大きくてもJXホールディングスのように非三菱グループと合併した企業や、日本郵船、キリンホールディングス、明治安田生命保険、東京海上日動火災保険など、古くから「三菱」とは異なる名称を用いてきた企業もある。
例えばキリンは、在留外国人らが創業したジャパン・ブルワリー社を、岩崎家や明治屋が資本参加して「麒麟麦酒」として再出発したものだ。岩崎弥太郎の長男、久弥が関わっていた。旭硝子は弥之助(三菱第2代社長)の次男俊弥が創業者だ。いずれも、創業者である弥太郎直系の会社ではない。
1879年創業の東京海上保険の株主には、弥太郎ら三菱関係者に加え、渋沢栄一や安田善次郎、大倉喜八郎などの大物財界人、華族など約200人あまりが名を連ねていた。
岩崎家直轄事業でないものには「三菱」と名を付けることはできなかっただろう。成り立ちにおいて、弥太郎が直接関与していない会社は、三菱を名乗っていない例が多いということがわかる。「三菱」を名乗らない企業は、スリーダイヤのマークも使わない。
Q3 今も岩崎家が影響力を持っている?
A 創業者の弥太郎から第4代社長の小弥太まで岩崎家から輩出し、三菱グループの礎を築いた。しかし戦後、連合国軍総司令部(GHQ)による財閥解体政策で、岩崎家は財閥家に指定されたことから、一族は全役職から追放された。小弥太は45年12月に亡くなっている。
GHQの占領政策が終わった53年以降、岩崎家も続々とグループ各社に戻ってきた。第3代社長、久弥の長男彦弥太は三菱地所の取締役になっており、彦弥太の長男寛弥は三菱銀行取締役になるなど、岩崎家の子孫はグループ内の要職に就いた。公職追放解除後、三菱製紙では岩崎家から会長が生まれたことがあり、三菱商事で岩崎家の娘婿が社長、会長を歴任したことがある。また、弥太郎の姉妹2人の嫁ぎ先、すなわち姻戚関係でもグループとつながりのある場合が多い。
では、現在の三菱グループに岩崎家の力が及んでいるかといえば、答えは「ノー」だ。株式会社は株主総会が最高の意思決定機関であり、現在の三菱グループは三菱重工業、三菱商事、三菱東京UFJ銀行の「御三家」を中心した株の持ち合い構造の中で各社とも企業運営されている。トヨタやサントリーのような同族企業ではない。
なお、岩崎家出身者はビジネス界以外でも活躍している。民進党衆院議員の木内孝胤氏は弥太郎の玄孫(やしゃご)であり、三菱銀行出身だ。
Q4 「金曜会」って何?
A 「三菱金曜会」は、三菱グループ29社の会長、社長を会員とする親睦会で………
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定価:620円(税込)
発売日:2016年6月6日