◇象徴を体現する「生き方」
橋場義之
(元毎日新聞東京社会部皇室担当記者)
私は昭和天皇の晩年から現在の天皇の即位まで、毎日新聞東京社会部記者として皇室を担当した。その取材経験と、それ以降も皇室を見てきた中で、「象徴」としての2人の天皇の権威の源泉の違いを感じている。
現憲法下で初めて即位し、2代目の「象徴」となる現在の天皇については、二つの事柄が印象的だ。
一つは、皇太子時代の1987(昭和62)年、誕生日の記者会見で天皇像について問われ、憲法が規定する象徴の地位は「伝統的な天皇の姿に一致する」とし、伝統的な天皇の時代として「少なくとも平安以降」と答えたことだ。天皇は個別の名前や事例を挙げて直接言及することは控えているが、身近に接した関係者によれば、そうした天皇として第108代の後水尾(ごみずのお)天皇を一例と考えているようだ。
後水尾天皇は江戸時代の1611年に即位。昭和天皇以前では最も長寿だった。即位後間もなく、後述する「禁中並公家諸法度」が定められ、在位中は幕府との間に確執が絶えなかった。だが、一方で学問や詩歌に深い関心を寄せ、京都の修学院離宮は自ら設計・意匠に当たったとされる。日本の伝統文化・芸能はこの時代に大いに花開いた。権力を幕府に奪われ、権威までも厳しく制限された中での天皇のあり方は、現憲法下の象徴天皇のあり方と通じるものがある、との考えだった。
もう一つは、皇室担当を離れ、毎日新聞西部本社報道部デスクをしていたときのことだ。91(平成3)年6月、長崎県の雲仙・普賢岳で大火砕流が発生し、多くの人々が被災した。天皇は皇后とともに現地の避難所をお見舞いした。被災地訪問は即位後初めて。天皇、皇后は体育館の床にひざをつき、被災者一人一人に正面から向き合って丁寧に声をかけた。昭和天皇では考えられない姿だった。「国民の安寧を祈り」「国民とともに」との思いは昭和天皇と同じであったとしても、象徴という存在をどのように自分らしく示すのか。この光景は「国民と同じ目線」という平成流の姿勢をはっきり示した最初の例だった。
◇公的行為に象徴の姿
天皇の務めとして憲法が規定する国事行為は、お言葉を述べ、書類に判を押すなど、定められた枠や形の中で形式的、儀礼的に行うものがほとんどだ。そこに個性を反映させることは難しい。一方で、天皇の行為には「公的行為」もある。これは「象徴という地位に基づいて公的な立場で行われるもの」などと解釈されているが、特段の具体的な規定はない。象徴の姿を具体的に国民に伝えたいと思えば、この「公的行為」の中に見いだそうとしても不思議はない。
「国民と同じ目線」は、同じ時代を生きる者として大事にする価値観を国民と共有することにつながる。男女平等などの人権感覚、全国各地や被災地訪問による国民との直接の触れ合い、家族同居や自らの手による子育てなど新しい家族像の率先、天皇と皇后は一体であり、常にともに考え、可能な限りともに行動する──。天皇は結婚以来、多くの公的行為を積み重ねてきた。海外戦地への慰霊の旅も加わった。「超多忙」と言われるほどに増えてしまったのは、宮内庁幹部や側近らの責任もあるが、周囲が押しとどめることができないほどの強い意志が天皇にあったせいでもあろう。8月8日の「お気持ち」でも、天皇は「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べている。昭和天皇の後を継いだ天皇にとって、これが象徴という権威の新たな源泉と考えているのだろう。
◇父性に通じる栄典の授与
87(昭和62)年秋のことだった。昭和天皇が病気のために天皇としての務めを果たしにくくなっていることが明らかになってくると、国事行為の委任の時期と、その方法が「摂政」か「臨時代行」なのかが焦点となった。昭和天皇の側近である侍従の1人に取材をした際、侍従から逆に質問された。
「憲法の国事行為のうち、陛下が絶対手放したくないと思っていらっしゃることは何だと思いますか」
憲法で6条から7条にかけて12項目の国事行為が定められている。いずれも形式的、名目的なもので、国政にはかかわらない。その中で「天皇として一番大事にしているもの、こだわっているものは何か」というのだ。答えに窮していると、侍従はこう教えてくれた………
(『週刊エコノミスト』2016年8月30日特大号<8月22日発売>20~21ページより転載)
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