築地
◇明治時代も移転でもめた
◇市場の利権が疑獄事件へ発展
福地享子(築地魚市場銀鱗会事務局長)
/編集部
築地市場の移転が紛糾している。当初、11月の予定だった豊洲への移転は、東京都の小池百合子知事が正式に延期を表明。安全性への懸念、巨額で不透明な費用の増加、情報公開の不足の三つの疑問が解消されておらず、東京都は、市場問題プロジェクトチームを発足させて、移転の可否を含め判断するとしている。
この先、築地市場が豊洲に移れば、食料流通の中枢を担う大市場としては実は2度目の大きな引っ越しになる。最初の引っ越しは、江戸時代から300年続いた日本橋魚河岸から現在の築地市場への移転である。
明治時代に持ち上がった日本橋からの移転は、魚河岸を仕切っていた問屋グループが猛反発し、今以上に混乱した。
明治の移転問題は、衛生的で安全な施設や時代に合った物流システムが望まれたということのほか、移転に伴い不透明なカネの流れが社会問題化し、移転の足を引っ張ったなど、今と共通する課題を抱えていた点で興味深い。
◇「朝千両」の大商い
明治期に端を発した魚河岸の移転問題を振り返るには、日本橋魚河岸の歴史を知っておかなければならない。魚河岸は、江戸時代初期の寛永年間の頃に誕生した。江戸は水の都であり、縦横にめぐらされた掘割を、物資を運ぶ船が行きかった。船荷を陸揚げする「河岸」は70あり、魚を扱う河岸のうち最も大きかったのが日本橋魚河岸だった。最盛期には、現在の室町1丁目から本町1丁目にかけて、ずらりと肴店が並んだ。
魚河岸の創始者は、江戸っ子ではなく森孫右衛門という摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃町)の名主と伝えられている。徳川家康上洛の折、大阪の住吉大社参拝の渡船を提供したのをきっかけに、孫右衛門は江戸に移って幕府の魚納入役となる。幕府に納めてなお余る魚介を市中で売ったのが魚河岸の起こりだ。
当初は江戸城船入堀のある道三堀河岸で商ったが、日本橋界隈の市街地造成に合わせて日本橋小田原町(現在の室町1丁目)に移り魚市場の体をなした。
森孫右衛門は鉄砲洲(現在の中央区明石町)沖の干潟100間四方を拝領して造成、故郷にちなんで佃島(中央区佃)と名づける。これを機に佃島で漁を行う生産者グループと、魚河岸で魚類販売を行う問屋グループに分かれる。ここに産地と問屋という近代物流の礎が築かれ、その後の魚河岸隆盛につながっていく。・・・・・
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