福田直子(ジャーナリスト)
フランスで2017年1月、仕事時間以外に電子メールや電話の使用を従業員が拒否できる「つながらない権利」を定めた改正労働法が施行された。
対象となるのは従業員50人以上の企業。「つながらない」のは勤務時間外の夜間や休日が想定される。企業はつながらない権利について従業員と交渉して細かな運用規定を定める義務を負うが、企業の違反に対する罰則規定はない。
日本人からみれば、「フランス人の労働時間は週に35時間、有給休暇は年に5週間」と聞いただけで、なんと恵まれているのだろう、と思うだろう。
だが実は、つながらない権利は、昨年、政府が進めた事実上の労働強化につながる法改正に対する懐柔策なのである。
◇選挙対策の産物
フランスで昨年、「労働・労使間対話の近代化・職業保障に関する法律」の改正(通称エルコムリ法案)が成立した。
エルコムリ法案は大論争を巻き起こした。法案は、週35時間の労働時間は基本的に保持するが、企業ごとに労働組合との交渉次第で1週間の労働時間を46時間まで延長できるというもの。また、企業は給料の削減を個々に決めることができる。さらに改正案は、企業に従業員を解雇しやすくする内容も含む。要するに、従業員にとっては、改正案は雇用を不安定にし、給料や残業代が減ることにつながる。
仏経済はここ数年間、失業率が10%前後で、若者の失業率はさらに高い。政府は規制緩和によって労働市場の流動化と雇用創出を促そうとしたが、企業側の権利を強め、将来の雇用を不安定化させかねない法案に市民は猛反発した。
「ストライキ・デモ国」として知られるフランスだが、昨年の労働法改正に対するデモはひとしお大規模なものだった。3月ごろから続いたデモは、9月に頂点に達し、全国で8万人近くが参加した。フランスで最大の労働組合、CGT(仏労働総同盟)が中心となって組合員や学生などを組織し、全国200の都市で展開されたデモは、火炎瓶を投げつけ、警察車両を燃やすなど一部で過激化した。
こうした背景もあり、今年4月、5月に控える大統領選で与党・社会党を中心とする左派は劣勢が予想されている。そこで一種の選挙対策として労働者側に譲歩する必要があり、その中で出てきたのがつながらない権利だった。
◇フランス・テレコムの教訓
とはいえ、つながらない権利は単なる政治的な妥協の産物だとは言い切れない。つながらない権利を改正案に含むことを主張したエルコムリ労働相は、ここ数年、フランスで問題になっているバーンアウト(燃え尽き)症候群への対応を意図していたと言われる。
バーンアウト症候群は、献身的に仕事に打ち込んできた人が、無気力状態や鬱状態に陥ることを指す。ジャクリーン・レミー著『仕事が私を殺す』(16年刊)によると現在、フランスには約300万人のバーンアウト症候群の予備軍がいるという。
仏郵政公社中間管理職にあったニコラ・ショッフェル氏(当時51歳)は、バーンアウト症候群との診断を受け、13年2月、3週間の自宅療養中に自宅で首つり自殺した。未亡人が仏『ルモンド』紙に語ったことによれば、「夫は療養中にも、会社から1500通の電子メール、110件の電話、53通のテキストメッセージを送られた」という。
ショッフェル氏は、1人で3人分の仕事を強要されていたに等しく、亡くなる最後の3カ月間で体重が18キロ減った。妻は「あなたは病気になる権利がある」と夫に言ったが、夫は心身ともに疲弊しすぎていた。
グローバル化にあって1人当たりの過重労働は増えている。そして裁判は何年もかかる。労働組合のSUD─PTT(郵政・情報産業労働者民主同盟)はショッフェル氏の未亡人とともに、「過労自殺したことは監督責任を怠ったため」と、元勤務先の仏郵政公社を訴えている。だが労働専門家の鑑定と聞き込み調査は始まったばかりだ。
バーンアウト症候群の原因は過重労働のみに限らない。社内外からの厳しい要求、過大なストレスなどがきっかけになることもある。こうした幅広い意味でのバーンアウト症候群の対策として、エルコムリ労働相は労働法改正案を起草するに当たり、オレンジ社(旧フランス・テレコム)の人事部に助言を求めた。
旧フランス・テレコムは、08年から09年の間に、全国で従業員30人が自殺して大スキャンダルになった。
フランス・テレコムは、もともと郵政省の一部で、国営企業だった。それが改革、民営化の波を受け、1988年に完全民営化した。そして06年、会社幹部は「全国11万人の従業員のうち、2万2000人に3年以内に辞めてもらい、新たに7000人のIT技術に長(た)けた若い従業員を雇用するプラン」を打ち出した。
雇用が厳しく守られている労働法下にあって、従業員を簡単に解雇することはできない。そこで、ありとあらゆる手法の「モラルハラスメント」が行われた。
ある女性は、1年間に3回転勤を命じられた。また、あるプロジェクトのリーダーだった社員は、部が引っ越すというので新しいビルに行ってみると電話もコンピューターもオフィス器具もないがらんとした部屋をあてがわれた。ある女性が出社してみると上司が彼女の資料をすべて処分していた。自分の専門職とは全く関係のない単純事務を強要された。
当時、会社社長は「自分から辞めないのであれば、ドアからでも、窓からでも追い出してやる」と言い、幹部は心理的圧力をかけて辞めてもらうプランを「ネクスト」と呼び、トップダウンで進めていった。心療内科に通う従業員が急増し、社内の心療内科医さえ、これ以上、従業員の話を聞くのは耐え難いといって辞職するぐらいであった。
自殺、あるいは自殺未遂をした人の中には、会社の駐車場で焼身自殺した人、ミーティング中に自分を刺した人、また会社のビル4階から身投げをした人もいた。最終的に、数千人が辞職していった。
つながらない権利はオレンジ社で大いに歓迎されたという。少なくとも過去の経験から、職場の労働環境改善につながるという期待は大きい。
◇「中途半端」の指摘も
一方で、つながらない権利が、かえって働きにくさを助長するという声もある。
幼い子供を持つ従業員たちにとっては、メールや電話で会社と「つながっている」ことで、自宅にいられる時間を長く取ることが可能になり、歓迎されている面もあるからだ。例えば日中を子供と過ごした分、夜に仕事するというように使える。
自宅で働く時間を確保するためには、個人がそれぞれ企業と交渉し、細かい契約に同意しなければならない。今後は、これにつながらない権利についての契約も定めることになると考えられる。契約内容も、業務のあり方も複雑さを増すことになる。
独仏の労働法に詳しいベルリンの弁護士は、つながらない権利について、「中途半端」な内容の法律だと指摘する。
「従業員でいつも連絡がつかない人と、いつでも連絡がつく人がいる場合、上司にとって連絡がつく人の方が印象が良いのは当たり前。たとえ権利に訴えて会社側に抗議をしたところで、それが少数であれば社内でよく見られることはない」ためだ。
職場でモラルハラスメントがなくても、夜間や休日にひっきりなしにメールを確認したり電話をかける労働者は多い。仕事熱心な人もいれば、不安感や他者への気遣いからそうせざるを得ない人もいる。「つながっている中毒」から解放されるためには法整備だけでなく、個人がどの程度自粛するかにかかっている。
(福田直子・ジャーナリスト)
*『週刊エコノミスト』2017年2月14日号掲載