宮嶋巌・月刊『FACTA』編集長
原子力発電所の安全性向上へ、原子炉等規制法(炉規法)の改正法案が4月7日に成立し、原発施設の保安検査体制が大きく変わった。原子力規制委員会(NRA)は原発再稼働を認める前に検査制度を見直すべきだったが、そこに手をつけられなかったのは「トラウマ」を引きずっていたからだ。
3・11当日、福島第1(1F)には、7人の原子力保安検査官がいた。5人が免振重要棟に残ったが、翌12日午後、1号機が爆発すると、全員が1Fから退避。同夜、検査官がいなくなったことに激怒した海江田万里経産相が「現場で注水状況を確認せよ」と命じたため、13日午前に4人が免振重要棟に戻った。
ところが、彼らは吉田昌郎所長が指揮していた緊急時対策室(緊対室)に立ち会うこともなく、実地検分もしなかった。14日昼、3号機が爆発してにわかに放射線量が上がると、身の危険を感じた4人は再び1Fから「遁走(とんそう)」して翌15日に福島市に避難、検査官が現場復帰したのは22日だった。その間、1Fでは東電と協力会社、そして防衛省、警察、消防による決死の注水作業が繰り広げられた。検査官の「敵前逃亡」は経産相の職務命令を軽んずる、公僕にあるまじき行為だったが、保安院は身内をかばい、結局、誰も責任を取らずうやむやになってしまった。
NRAが検査制度見直しに踏み切ったのは、国際原子力機関(IAEA)が昨年4月に出した調査報告書がきっかけだった。IAEAは、規制当局と事業者の検査が重複して責任の所在が曖昧になっていることや、検査官が自由に原発施設に出入りできない問題を指摘した上で制度改革を促した。
モデルにしたのは、米原子力規制委員会(NRC)が2000年に導入した「原子炉監視プロセス(ROP)」。実は米国でも1979年のスリーマイル島原発事故後、規制当局の検査が硬直化し、原発の稼働率が著しく低下した。ROPでは、NRCの監視・評価システムを体系化し、リスク情報を活用して検査の客観化を図った。
新制度の特徴は、事業者の保安活動を客観的に評価し、各プラントの良否を5段階で色分けして公表するところにある。NRAでの見直しを進めてきた制度改正審議室の担当者は「各プラントの評価は許容不可能な赤から黄、白、緑、無色の順に安全上の重要度が下がっていき、全部が緑なら規制措置はなく事業者の負担が減る。逆に成績が悪い赤や黄のプラントには追加検査を行い、停止命令を出すこともある」と説明する。「チェックリスト」をなぞる硬直的な検査から解放され、事業者の保安活動を常時監視・評価し、抜き打ち検査も行えるようになった。
新たな監視プロセスを導入した米国の原発はトラブルが減り、稼働率が90%前後に向上したが、定着には10年以上の歳月を要したという。
炉規法が改正されたばかりの日本には、従来の検査官に各プラントの安全性をランク付けする技量やノウハウがあるわけではない。このためNRAは16年夏に5人の職員をNRCに1年間派遣し、ROPの実務を学ばせている。17年は更に6人を送り込む。検査官16人の増員も決まっており、向こう3年間で合計50人が増える計画だ。
さらに17年10月からは、新たな検査官の資格認定審査が開始される。従来、実務経験2年以上の理工系大学出身者が2週間の初任研修を受けると検査官になれたが、今後は6カ月の基礎研修を終えた者を検査官補とし、さらに18カ月間の専門研修を修了した者に資格認定審査を行い、検査官に任用する仕組みになる。
◇2F救った元東芝社員
検査官の育成で教育・訓練の重要性は言うまでもないが、気掛かりなのは有事対応の能力だ。つまり、不測の事態に身の危険を顧みず「最前線の砦(とりで)」となり得るのだろうか。
3・11の際、1Fから南へ10キロ離れた福島第2原発(2F)に「2Fを救った」と評される検査官がいた。当時、2Fの常駐検査官だった宮下明男氏(70)だ。
外部電源が残った2Fは中央制御室の停電は免れたものの、出力110万キロワットの4基がフル稼働中で、このうち3基の原子炉が冷却機能を失い、死線をさまよっていた。
宮下氏は事故直後、2Fの増田尚宏所長が指揮を執る円卓に着き、すぐに自ら鉛筆で書いた「復旧工程案」(冒頭図)を所長に提示。東電はそれを基に電源復旧工程表を作成した。発災から10日間、宮下氏が緊対室から離れることはなく、「宮下さんがいてくれて本当に助かった」と増田氏は述懐する。
宮下氏は1F、柏崎刈羽、浜岡、女川原発の建設に携わった元東芝社員。「2Fでは(定検のための)東芝の責任者を7年間務めたので、現場に詳しくなった」と話す。01年に保安検査官に転じ、浜岡と1Fを経て、2Fにて勤めていた際に3・11に遭遇した。
「僕は残りますよ、と進んで手を挙げたのは検査官だからというよりも個人的な思いが強かった」と語る宮下氏。復旧工程案を書いた経緯について、宮下氏は「東芝時代、トラブルがあるたびに作業工程表を作っていたから、僕は得意だった。本当の有事の時は誰も助けに来てくれないから、現場に残った人が得意分野で協力するしかない。『(検査官が)そんなことまでするのか』とは思わなかった。増田さんも冷静に議論して各スタッフに明確な指示を出していた。有事対応は、やはり上に立つ人の器量次第だと思った」。
復旧作業中に身の危険を感じなかったかと質問すると、宮下氏は「14日に1Fの3号機が爆発した時は涙が出た。若い頃、4年間かけて造ったから。そして、ここで死ぬかもしれないと思った」と複雑な思いを明かした。1Fで検査官が避難した時も残ると言ったのは「やっぱり使命感だと思う」と話し、加えて現場の一体的な活動を強調した。「緊対室では女性職員もずっと帰らず、残って食事を作ってくれた。休息のために当直室も空けてくれた。僕は『チーム』の一員みたいなものだった」と振り返る。
「皆が落ち着いて目標を決め、きちんと対応できた。みんながヒーロー、本当にすごいチームワークだった」
現在、日本の常駐検査官の半数は、宮下氏と同様に原発に精通したメーカーなどからの中途採用だ。ただ、宮下氏ほどの経験と胆力を持った人材が3・11の2Fにいたことは、美妙なる「天の配剤」である。なぜなら、宮下氏は定年で11年3月末での退官が決まっていたからだ。発災から10日間、鬼気迫る現場で一部始終を見守った「検査官の鑑(かがみ)」がいたことを忘れてはならない。
(宮嶋巌・月刊『FACTA』編集長)
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◇みやじま・いわお
1957年東京生まれ。早稲田大卒。旧行政管理庁・総務庁(現総務省)で勤務後、月刊「選択」編集部で編集記者、デスク、編集長を歴任。2005年にファクタ出版(株)を設立、06年に月刊『FACTA』を創刊。11年より同誌編集長。