◇契約のルールに大きな変化
◇グローバル時代に法体系刷新
「ユーザーがユーザー登録や登録内容の変更をしたことや弊社がユーザー登録を承認しないことにより生じた損害に関しまして、弊社は一切責任を負わないものとします」──。
誰もが気軽に利用できるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などインターネット上のサービス。利用を始めようとすると、「約款」や「利用規約」といった名称の細かな文字が並ぶ画面が現れ、細かく読まずに「同意する」ボタンを押した経験は誰にでもある。
こうした約款はネット関連に限らず、保険や電気、ガス、鉄道、旅行など、さまざまなサービスにつきまとう。しかし、利用者が細かく読んでいない約款は、当事者の意思が合致することを前提とする契約としてどこまで有効なのかという疑問が生じる。
実は民法に約款についての定めはこれまでなく、古くからトラブルのタネになってきた。すでに1915(大正4)年には、大審院(当時の最高裁)が火災保険の約款の効力について、約款の内容を深く知らなかった時でも約款の内容によって契約する意思があったと推定するとした判決を下した。この判決は現在まで生きる重要な判例となっている。一方、自動車保険の重要な免責事項については、東京地裁が82年、契約締結前に契約の相手方に実質的かつ直接的な告知が必要と認定した。
こうした判例の積み重ねによって、約款として盛り込まれた重要な契約条項の内容を当事者が具体的に知らなかった場合、当事者を拘束しないことがあるという考え方が現在は定着している。さらに、サービスの利用者にとって一方的に不利な条項が盛り込まれることなどを防ごうと、電気事業法や旅行業法などの「業法」で約款を規定してきたほか、消費者対事業者の取引で民法に優先して適用される特別法「消費者契約法」も、約款上の不利な条項を規制している。
しかし、事業者対事業者など、業法や特別法の対象とならない取引でも約款は日常的に用いられており、トラブルのタネがなくなることはない。とはいえ、約款という形態がなければ、不特定多数を相手にするサービスで一々、個別交渉しなければならず、あまりに非効率だ。民法が施行された1898(明治31)年当時の経済や取引は、約款という形態の契約を想定していなかったのだ。
◇メインは「債権法」
民法は五つのパートから構成されている。時効など各編の共通ルールを定めた第1編「総則」、物を支配する権利を定めた第2編「物権」(「物権法」とも呼ばれる)、契約などのルールを定めた第3編「債権」(債権法)のほか、夫婦や親子関係などについて定めた第4編「親族」(親族法)、人の死亡に伴う権利・義務関係の移転のルールを示した第5編「相続」(相続法)で、5月26日に国会で可決・成立した今回の民法改正は債権法がメイン。実に約120年ぶりとなる。
親族法と相続法は1947年、日本国憲法制定に伴い「家制度」を廃止するために全面改正されたほか、物権法も2003年、担保の分野を中心に改正されるなどしている。債権法が長く改正されなかったのは、(1)日本の民法自体がシンプルで、解釈や判例によってそのすき間を埋めてきたこと、(2)債権法にいつの時代にも通用する普遍性があったこと──という大きく二つの理由がありそうだ。また、債権法の分野では特別法として借地借家法なども制定され、民法を補う役割を果たしてきた。
しかし、インターネットをはじめとする電子取引が21世紀の現在は拡大するなど、社会や経済を取り巻く環境は劇的に変化した。また、国際商取引の国際標準が、日本の民法がモデルとした独仏の大陸法から英米法となったのも大きな変化の一つだ。また、約款のように民法に規定がなく、空いた網目の穴を判例や解釈論で塞ぐという従来の運用は、民間の取引実務に大きな支障がなくても、法体系としての安定性に欠ける。さらに、国民ばかりでなく、日本と取引する海外企業にとっても分かりにくい。
今回の民法改正はそうした時代の圧力を反映させた。施行日は2020年の1月1日か4月1日となる可能性が濃厚だ。改正の要点は、(1)現代の社会や経済などの状況に合わせる、(2)判例や解釈論が定着したものを明文化──したこと。(1)は約款の効力などを規定する「定型約款」の新設や、業種でバラバラだった売掛金などの「消滅時効」の廃止といった点で、(2)は賃貸物件での敷金や退去時の原状回復義務のルールに関する項目の新設などだ。
◇とことんまで議論
だが、改正作業は長期間を要した。
法務省が検討に着手したのは2006年の初め。これを受けて、同年10月には法学者有志の「民法(債権法)検討委員会」が債権法改正の方針づくりを始めるなど、法改正に向けた議論が広がっていく。そして、千葉景子法相(当時)が09年10月、法制審議会(法相の諮問機関)に債権法見直しを諮問し、公式の議論がスタート。具体的な議論の場として法制審に「民法(債権関係)部会」を設置し、15年2月に法案策定の基となる「要綱案」をまとめるまで部会開催は99回を数えた。
部会では法曹界や有識者のほか、産業界、労働団体などの代表が意見をぶつけ合った。最後まで議論がもつれたのは、民法に「定型約款」をどう盛り込むかだ。民法上の規定となれば事業者間取引にも幅広く影響が及ぶことに産業界は難色を示した。個人より知識や対応力のある事業者間にも適用されると、取引の円滑化が損なわれたり、事務処理が膨大になることが懸念されたからだ。ぎりぎりまで条文案の修正作業が続いた。
結局、最後となる99回目の法制審部会で、産業界の代表である東京ガス出身の委員が「特に今日も縷々(るる)まだ反対を述べるとか、そういうことをするつもりは全くございません」と発言し、改正の方向性で決着。民法(債権法)改正検討委員会の委員から、法制審の民法(債権関係)部会幹事まで10年以上、債権法改正の議論にかかわった早稲田大学の山野目章夫教授は「明治の人たちに民法をダメにしたと怒られないような改正にしなくてはという責任感があった」と振り返った。
改正民法施行に備え、企業は対応を取り始めた。三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)は、これまでに作成した約款の見直しに着手する。傘下の三井住友銀行などグループ企業は、預金取引だけでなくインターネットバンキングなどでも数多く約款を定めており、「これまでの約款に不適切な条項があったとは考えていないが、改めて、適法性があるかどうかを約款ごとに確認する必要がある」という。
◇損害保険金に影響
今回の民法改正では、法定利率を「3%」に引き下げるとともに、3年ごとに見直す「変動制」も導入した。現行の法定利率は「5%」と、預金がほぼゼロ金利の現在はかなりの高金利にあたる。5%は民法制定当時の金利などが基とされる。その後、バブル経済に至るまで日本はインフレが常であり、バブル期の預金金利は5%を上回っていた。法定利率は「最低限の金利」の位置づけだった。
だが、バブル崩壊後の日本経済は低成長が続き、市中金利は法定利率を下回って超低空飛行を続ける。さらに、金融政策も追い打ちをかけ、日銀は13年4月、成長率を底上げするためとして異次元緩和を導入。16年2月には、ついにマイナス金利政策へと突入し、法定利率と現実との乖離(かいり)は当面、埋まりそうにない。法定利率の見直しもまた、民法を現実に合わせていく時代の要請だったといえる。
法定利率が見直されたことで、大きく影響しそうなのが損害保険会社の支払う対人賠償保険金の算定だ。交通事故などで被害者が死亡したり後遺障害が残ったりすると、その人が働き続ければ得られた収入に応じて算定される「逸失利益」を賠償する。この逸失利益を一括で賠償する際、働き続ければ収入を得られた時点までの利息分を差し引く(中間利息控除)が、利息分算出に使われるのが法定利率だ。
これまでは5%の複利計算で差し引かれていたが、今後は3%で差し引かれるため、現在に受け取る保険金の額は多くなる。例えば、10年後に受け取るはずの1000万円の逸失利益があったとして、5%の複利計算では現在の価値は613万円余りだが、3%では744万円強と100万円以上の違いが出る。わずか2%の差でもこれほど多額になるため、損保大手の担当者は「保険料が引き上がる可能性もある」と話す。
◇家賃保証会社は「追い風」
一方で“追い風”となるのが家賃保証の業界だ。これまで個人が賃貸マンションなどに入居する場合、賃料不払いなどに備えて家賃保証会社を使いながら、賃貸物件のオーナーが借り主から連帯保証人を取ることが多かった。しかし、民法改正後は個人が過大な保証債務を抱えるのを防ぐため、「公正証書」(公証人が作成する書面)で保証人の意思を確認したりする必要があり、保証人のなり手のハードルが高くなる。
そもそも、高齢の入居者など連帯保証人をつけにくい人が増え、連帯保証人が保証していた分まで家賃保証会社が担うなど役割は広がっており、家賃保証会社の保証件数は伸び続けている。家賃保証会社のジェイリース(東京都新宿区)の中島拓社長は「民法改正によってさらに家賃保証会社の役割は拡大する」と意気込み、社員向けに今年4月、弁護士による民法改正の勉強会を開くなど着々と備えている。
商業用不動産向けの保証会社も、商機拡大のチャンスとみる。商業用不動産では家賃の不払いなどに備え、月額賃料の8~12カ月分を敷金とするのが慣例。さらに、入居するテナント企業の社長などを連帯保証人としてきたが、それも民法改正後は難しくなる。商業用不動産で敷金に代わる保証を提供する日本商業不動産保証(同港区)は民法改正を見据え、テナント側が支払う敷金を3カ月分としたうえで、残る敷金分を不動産のオーナーに保証する新サービスを6月末から始めた。
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日々のビジネスや身近な生活にも深く関わる民法が大きく変わる。しっかりと理解して法改正に備えたい。
(桐山友一、米江貴史・編集部)
週刊エコノミスト 2017年7月11日号
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