「All for All (オール フォー オール、みんながみんなのために)」のフレーズを掲げた民進党の前原誠司氏のブレーンとして知られる井手英策・慶応義塾大学経済学部教授。誰もが生きていくうえで必要とするサービスを無償で利用でき、財源は増税で社会全体が負担するというビジョンの「生みの親」だ。
ところが、前原氏は、民進党を小池百合子氏が率いる希望の党へ合流させることを決断。一方、安倍晋三首相は、「消費増税分の使途を教育無償化に変える」と表明し、「増税で無償化」をまねする形で先取りしてしまった。
── 前原氏に裏切られたという思いがあるのでは。
井手 まったくない。政治とはそういうものだ。衆議院解散の直前までは、民進党は議席を増やせるという見通しがあった。ところが、小池新党という“突風”が吹いて、民進党は逆に大敗する可能性が大きくなってしまった。そんな政党がいくらオール・フォー・オールと叫んだところで、何の意味があるのかと僕はいささかうっくつした思いでいた。そんな状況のなかで前原氏が合流を決断し、政権交代の実現性を高めた。
── 合流をいつ知ったのか。
井手 当日、ヤフーニュースで知った。前原氏から連絡が来たのは2日後だった。僕にさえ隠して進めたことに、むしろ感動した。民進党の最大の欠点は、情報が漏れ過ぎることだと思っていた。
── 今後の前原氏との関係は。
井手 運命を共にすることに変わりはない。彼が一番、困っている時に逃げるのは人間としてありえない。でも僕は、小池氏や希望の党とは組めないと伝えた。「排除と選別」と言う人と組んだら、僕という人間の自己否定以外の何物でもない。
政治的にも「排除と選別」と言ったのは小池氏の致命的なミスだったと思う。日本人は心情的に受け入れられない。
◇理念の種はまかれた
── 希望の党は消費増税凍結を公約に掲げた。
井手 ただ、希望の党の政策協定書には「税の恩恵が全ての国民に行きわたる仕組みを強化する」とある。オール・フォー・オールそのものだ。
── それは単なる言葉であって、あえて反対する人はいないのでは。
井手 だから安倍首相も乗った。左右の違いを超えて皆、乗ってくる。僕の理念の強みはそこにある。
── 理念に乗るだけでなく、政策として実現できるかが重要だ。
井手 確かに、この理念に従って、希望の党が何をやろうとするかは分からない。日本維新の会と連携するので、歳出削減の方向性も入ってくるだろう。選挙の結果、民進党議員が多数を占めるかもしれない。政策は生き延びていく。
希望の党に合流しなかった議員や自民党の議員も含め、理念の種はまかれたと思っている。選挙後、政界はすごく揺れると思う。僕は政党とのつながりではなく、志を同じくする人たちと対話しながら、いつ何が起きても、人々が集まれる思想的な旗だけはしっかりと作っておきたい。
── 前原氏が政権に入れば、政策立案に携わるのか。
井手 その時が、僕が彼から解き放たれる時だ。権力の中に入って変えることが目的なら、最初から自民党に行っている。代替可能な選択肢を作ることが僕の使命だ。
◇自民の模倣は想定内
── 選挙で井手さんの理念を最も実現しようとしているのは自民党ではないか。
井手 誰が実現するかが目的ではない。模倣されるのは予想されたことだ。それが安倍首相だとは思わなかったが。当然、野党は逆張りで増税凍結を打ち出し、差別化をしようとする動きに出てくる。
政治はその時々の合理性で、どうすれば票が取れるか、政党の中で影響力を行使できるかを考えて動く。陣地戦のようなもの。右往左往するかもしれないが、長い時間軸で見れば、全体としてある方向に向かっていく。僕は向かう先の理念を示す。
── 政治家の関心は、経済政策から憲法や安全保障に移ったのでは。
井手 歴史を見れば分かるように、社会が右傾化するのは、中間層の没落が明確になる時だ。軍拡への支持が一気に高まる。僕は憲法などより、中間層の「生活保障」が右傾化を阻止する最大の近道だと思っている。
── その「生活保障」を実現するために必要な財源の規模は。
井手 介護、医療、高等教育、大学、幼稚園、保育園、障がい者福祉を無償化した場合、利用がどの程度増えるかは分からないが、現時点の自己負担は単純に計算できる。9・5兆円だ。消費税3・5%分でほぼまかなえる。ただ、国民がどの程度の水準の生活保障を望むのかによって増税の幅は変わる。
── 財源は消費税なのか。
井手 私が描く「痛みを分かち合う」社会には二つの意味がある。まず、貧しい人もちゃんと税を払う。だから消費税は外せない。一方で、もうかった人にも負担してもらう。例えば、金融所得課税を国際標準並みまで5%上げれば、1兆円になる。相続税もある。僕は「税のベストミックス」と言ってきた。
── 誰もが無償化されたサービスを使えるようになるのはいいことかもしれない。だが現実には、高所得層は自費で私的サービスを使う一方、公的サービスの質が劣化する事態に陥るのではないか。
井手 そればかりでなく、高所得層が無償化で浮いたお金を教育投資に回せば格差が開きかねない。だから教育の質を高めなければならない。
── 質を高めるためには、消費増税3・5%分では足りないのでは。
井手 3・5%上げると国民負担率(税と社会保険料の国民所得比)は、イギリスとドイツの間だ。そのイギリスでは公的医療は受診まで長く待たされると言われる。だが、それを解消しようとすればケタ違いにお金がかかる。重要なことは、多少待たされてもタダで病院に行けるのならかまわないという人々が、安心して生きていける状況を作ることだ。
◇財政健全化は先送りOK
── 消費増税分を社会保障に充てることは、既に10%への引き上げを決めた2012年の3党合意(自民党・民主党・公明党)に基づく「社会保障と税の一体改革」でも示されている。何が違うのか。
井手 3党合意は、要するに増税による財政再建だ。僕は財政健全化なんて先送りしていいから、増税して集める分は使えと言っている。
一体改革では、消費税の増収分について、全額を社会保障に使うと言った。そう聞くと我々国民は普通、全て社会保障の拡充に使うと思う。
だが実は、5%のうち4%分の使い道は財政再建だった。社会保障の歳出が高齢化に伴って増えていき、増税しなければ歳出を削らなければならないなかで、増税により社会保障の歳出削減はなくなる──という意味だった。それを「事実上の社会保障の充実」と言い換えた。
── 日本は負担が伴わないまま社会保障を拡大し、高齢化しているため、借金して社会保障に充てている。それを放置していいのか。
井手 政府の純債務は急激に増えているが、企業の純債務は激減しており、国全体での純債務はコントロールされている。政府と企業の純債務が、家計の純資産を超えれば危険だが、差はむしろ広がっている。そのなかで、なぜ財政危機を喧伝(けんでん)する必要があるのか教えてほしい。
── 市場をなめていると大変なことになるのでは。
井手 国債価格はずっと安定している。日銀が国債を買っている限り大丈夫だ。国際収支が赤字になり外資が日本国債を買うようになれば、彼らが思惑で投機した時に円安と物価上昇、国債暴落が起きることは分かる。だが、まだその状況にはない。
この状況で危機だと騒ぐのは逆に無責任だ。人々のマインドが萎縮し、財政をもっと人々のために使えるのに、使えなくすることにつながる。
本気で財政再建を考えるのなら、自分たちが払った税が、ちゃんと自分たちのために使われるという成功体験により、国民の痛税感が緩和されることの方がはるかに大事だ。
── 税が自分たちにきちんと還元されるという感覚を生み出すことは可能なのか。
井手 政策の打ち出し方による。これまでの消費増税で、例えば保育園の数を増やしたというが、恩恵を感じるのは新たに入れた人だけ。だが、無償化はサービスを利用する人全員が対象だ。所得制限がある場合と比べてもはるかに分断されない。
(聞き手=藤枝克治/黒崎亜弓・編集部)
*週刊エコノミスト2017年10月24日号掲載