板谷敏彦氏の著書『日本人のための第一次世界大戦史』(毎日新聞出版)の発売を記念して、歴史に関する著作が数多くあるライフネット生命創業者の出口治明氏と特別対談を行った。なぜ今、第一次大戦を学ぶのか。2人が熱く語る。
「読んで楽しい『広辞苑』のような一冊」(出口)
出口 昨年から今年にかけてたくさんの第一次世界大戦関連本が発売されました。当時の指導者たちを描いた『夢遊病者たち』(クリストファー・クラーク著、みすず書房)、中東問題を学ぶ基本テキストであろう『オスマン帝国の崩壊』(ユージン・ローガン著、白水社)、岩波書店の『現代の起点 第一次世界大戦』シリーズなどユニークな本が数多く出ています。
第一次大戦を語る時にはサラエボ事件(1914年6月)から始める本が多いのですが、板谷さんの『日本人のための第一次世界大戦史』は開戦のずっと前までさかのぼって書かれているのが面白い。広くいろいろな出来事をカバーしていて一見、第一次大戦の百科事典のようでありながら、読み物としても楽しめる『広辞苑』のような入門書だと思いました。
「専門家と一般読者のギャップ埋める本を書きたかった」(板谷)
板谷 第一次大戦は現代の世界のあり方に影響を与えた世界史上極めて重要な出来事なので、内外で膨大な数の書籍が出ています。しかし、良書は専門書的にならざるをえず、一般の読者は取り付きにくいのではないかと考えました。このギャップを埋めるのは学者ではなく作家の仕事だと思い、自分が読みたかった本を自分で書いたというわけです。
出口 第一次大戦を振り返ってあらためて思うのは、政治指導者の責任がものすごく重いということです。誰もやりたくなかったはずの第一次大戦を引き起こし、それが結局、第二次世界大戦を引き起こす原因になってしまいました。板谷さんは、何が第一次大戦の本当の開戦原因だったと思いますか。
「民主主義の未熟な側面が大戦を引き起こした」(板谷)
板谷 民主主義の未熟な側面が戦争を引き起こしたと考えています。欧州各国は近隣諸国の脅威を背景に、戦艦建造を競う建艦競争に国家予算の20%を費やしました。当時は普通選挙制度が拡大していた時期だったので、政府は予算獲得のために有権者の支持を得なければならなかった。戦艦建造を失業対策の公共事業と捉えると同時に「ドイツは悪い奴だ」とか、ドイツにすれば「我々は包囲されている」とか、危機を煽(あお)り隣国に対する憎悪をかきたてて軍事費を確保したのです。
だから戦争が始まった瞬間、民衆は嘆き悲しまず、むしろスカッとしていたんです。兵士たちは歓喜の声を上げてパレードして、「クリスマスまでには帰るぞ」と出兵しました。
もう一つ、この本を書く上で念頭にあったのは、トマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房)です。ピケティは19世紀後半から第一次大戦までの第1次グローバリゼーションは、格差が拡大した時代だったと指摘しています。また東京大学の小野塚知二教授は『第一次世界大戦開戦原因の再検討』(岩波書店)で、格差拡大により人々の不満が鬱積(うっせき)したことが戦争を引き起こす原動力になったのではないかという仮説を立てています。
出口 現在のグローバリゼーションは世界的に見ると中間層を増やしています。中間層が増えれば社会は安定します。しかし、先進国では国内の所得再分配がうまくいかず二極分化してしまいました。第一次大戦前の19世紀もグローバリゼーションの進展とともに格差が広がりましたが、ドイツは「社会保険の父」と呼ばれたビスマルク(1815~98年)の時代までは格差縮小に成功していました。その後はどうなったのでしょう。
出口冶明◇でぐち・はるあき
1948年三重県生れ。京都大学法学部を卒業後、日本生命保険相互会社入社。2006年に退職。ネットライフ企画(現在のライフネット生命)を設立し、社長に就任。13年から会長。17年に会長を退任。主な著書に『仕事に効く教養としての「世界史」』(祥伝社)など。
出口氏も11月に「人類5000年史Ⅰ:紀元前の世界」(筑摩書房)を上梓した。年1冊ペースで書いていくという。
板谷 工業化の進展とともに労働者が増えて社会主義政党が勢力を伸ばしていきました。これに対して政府は国民のナショナリズムを喚起し、植民地獲得など対外進出をアピールすることで不満のはけ口としました。その一つが建艦競争であり、第一次大戦につながる下地になっていきました。
出口 第一次大戦は、覇権国である大英帝国をドイツが追い上げ、大英帝国と統一ドイツ、どちらが欧州のリーダーシップを取るかという確執に決着をつけなければならなかったという問題が根本にありました。この戦いになぜ日本が参戦したのでしょうか。
板谷 「中国問題」が大きいでしょう。日露戦争(1904~05年)後、日本はロシアから中国における権益を獲得しましたが、旅順・大連などの租借権は1923年まで、南満州鉄道は1939年までしかなく期間が短かすぎて十分な投資ができませんでした。そこに中国から列強がいなくなったので、問題を解決するならば今だと思ったのでしょう。
出口 皆の目が欧州に向かっているからチャンスだということですね。基本的に日本の参戦理由の本音は、日本政府が中国に突きつけた対華二十一カ条要求(1915年)に表れていると思います。
板谷 そうですね。二十一カ条の最後、問題になった第5号は民意に押されて仕方なく追加されたもので、日本も未熟な民主主義の影響から戦争に参加していったことが分かります。この5号は中国の主権や列強の既得権益に触れる内容を含む厚かましい要求で、当初秘匿していたこともあって後に世界中から非難を浴びることになりました。
越えてはいけない一線を越えた二十一カ条要求(出口)
出口 当時は、二十一カ条要求のほかに、アジアと一緒に西欧に対抗していくんだという大アジア主義的な素朴なアジアナショナリズムもありましたね。
板谷 地中海への艦隊派遣に参加した片岡覚太郎という若い主計中尉の日記(『日本海軍地中海遠征記─若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦』〈河出書房新社〉)に「我々は黄色人種の代表だ」と書いてありました。心の底にそういう思いもあったでしょう。
出口 アジアに軸足を置くか、西欧列強に軸足を置くか、越えてはいけない一線を越えたのが対華二十一カ条要求でした。日本政府は自分たちは遅れてきた帝国主義者だと、列強の側に付いてしまったのです。
板谷 政治家の中には原敬や高橋是清、ジャーナリストの石橋湛山など強硬な要求に反対した要人も多くいたのですが、あの時、日本がアジア主義に立って中国を助ける側に回れば、今日の日中関係もまったく違うものになっていたでしょう。
第一次大戦は人類初の総力戦(兵隊だけではなく国民全体を巻き込む戦争)と言われています。その総力戦を目撃してしまった衝撃は、特に軍人にとっては大きかったはずです。そして日本はソ連や米国と総力戦を戦うためには、中国の資源がないとやっていけないと、満州事変(1931年)や日中戦争(1937~45年)にひた走っていきました。
板谷敏彦◇いたや・としひこ
1955年、兵庫県生まれ。関西学院大学経済学部卒業後、石川島播磨重工業船舶部門を経て日興証券へ。その後内外大手証券会社幹部を経て独立、作家に転じた。主な著書に『日露戦争、資金調達の戦い』『金融の世界史』(ともに新潮社)がある。
「日本人は総力戦を目撃したが、学んだわけではなかった」(出口)
出口 そうですね。しかし、日本は第一次大戦で総力戦を垣間見たかもしれませんが、しっかり学んだわけではありませんでした。1941年12月に太平洋戦争を始めましたが、日本の軍需生産は42年をピークにその後はガタガタに落ちていきました。一方、ドイツの軍需生産のピークは44年です。また第二次大戦における日本の戦死者は約230万人で、そのうち餓死者が6割と言われています。兵站(へいたん)をおろそかにした点ひとつをとっても、日本の軍部は総力戦の意味をしっかりと学んでいなかったことがわかります。
外交面も日本はあまり学んでいません。第一次大戦の戦後処理を協議したパリ講和会議(1919年)で、日本政府は英語やフランス語を話せる人材を十分に確保できなかったためにアピールすることができず、国際連盟規約に人種差別撤廃規約を盛り込むという希望も果たせなかった。その苦い経験を後に生かせていません。
板谷 中華民国はパリ講和会議に米コロンビア大学の修士号を持つ顧維均(こいきん)を派遣し、対華二十一カ条要求は無効だと流ちょうな英語で演説させました。あれは欧米のメディアに鮮烈なイメージを残したと思います。この演説が非常に効果的だったために、日本は人種差別撤廃を求めながらも、中国や朝鮮に対しては差別する国だという印象を持たれてしまったわけです。
出口 明治時代の指導者たちは米国をはじめとした世界の強国に学ばなければならないという意識を強く持っていました。欧米に政権幹部の大半を派遣した岩倉使節団はその表れです。しかし、日清・日露戦争と第一次大戦がうまく行きすぎたため、舞い上がってしまい学ぶことを捨ててしまった。とても残念なことです。
これは過去の話ではありません。現在、米国に留学する学生は、日本人は2万人以下なのに、中国人は33万人もいます。1人当たり国内総生産(GDP)では日本が上回っているにもかかわらず、これだけ数字の開きがあるということは、それだけ中国は米国に学ぼうという意識が強いということです。日本人はもっと謙虚になって世界から学ぶ気持ちを持つ必要があると思います。
ドイツへの莫大な賠償要求に激怒したケインズ(板谷)
出口 金融面から第一次大戦を見た時、独墺などの中央同盟国と英仏露の協商国(連合国)は米国の参戦までどのように戦費をファイナンスしていたのでしょうか。
板谷 基本的に国債発行で賄っていました。ドイツは、ソビエトと休戦条約を締結した戦争最終年の1918年3月の時点でも、国内で国債の買い手を確保できていました。国民は最後は勝つと信じていたのです。
一方、英仏は、戦後間もない時期から米国での起債を検討しました。米国は交戦国の公債引き受けを禁じていましたが、軍需物資調達向けの信用供与という抜け道を作って対応したのです。連合国の米国における資金調達で活躍したのがモルガン商会(現在のJPモルガン)でした。1915年1月にイギリス陸海軍、そして春にはフランスと、軍事物資を効率的に購買できるようにするため、自らが代行機関となるべく両者と契約を結んでいます。
当時、先進国は金本位制を採用していたわけですが、当然、イギリスは開戦とともに紙幣の金兌換(だかん)を停止したと思っていました。ところが、調べてみたら違った。金融史家R・S・セイヤーズの『イングランド銀行』(東洋経済新報社)によると、ロイド・ジョージ蔵相や大蔵省に勤めていた経済学者ケインズなどの意見により、金の支払いを維持したのです。実は日露戦争でも、日露両国は戦時国債の発行に備えて信用力を保つために金本位制を維持しました。同じことを第一次大戦でイギリスもやっていたわけです。
出口 ドイツも米国で起債したのですか。
板谷 ドイツはできませんでした。イギリスが海上封鎖し、通信網も完全に傍受できる体制を築いていたので、米国にアクセスすること自体が不可能でした。米国にはモルガン商会のライバルで、ドイツ生まれのヤコブ・シフが経営するクーン・ローブ商会があったので、もし米国に行くことができていたらドイツも資金調達できたでしょう。
もう一つ、第一次大戦の金融面で外せない問題があります。ドイツの戦後賠償です。イギリス政府が当初提示した賠償額は240億ポンドで、最終的には1320億金マルク(約66億ポンド)まで引き下げられましたが、それでも莫大(ばくだい)な数字でした。当時、大蔵省にいたケインズは賠償要求金額の原案作成を任され、ドイツの支払い能力を考慮すると賠償額は20億ポンド(当時の日本の一般会計歳出の2倍に相当)が妥当と計算していましたが、全く意見を聞き入れられなかったのです。ケインズは当時書いた『平和の経済的帰結』の中で「(ドイツの)破綻は目に見えている」と連合国側を激しく非難しています。
第一次世界大戦が第二次大戦を引き起こした(出口)
出口 1320億金マルクは、現在の価値に直すと日本の市民1人当たり1000万円と試算する人もいます。こんな金額を払えるわけがありません。必ず反動があることは目に見えていました。板谷さんも著書の中で指摘していますが、第一次大戦が第二次大戦を引き起こしたのは明らかです。戦争は、始める時よりも、終わらせる時にこそ知恵が求められます。
よく第一次大戦前と現在の状況は似ているという議論があります。しかし似ている時代なんてどこにもありません。前提が変わっていますから。でも、当時の状況を丁寧に見て歴史から学ぶことで、指導者はもっとしっかりしなければならない、外交は情報収集がカギを握るなど、歴史から教訓を得ることはいくらでもできます。
板谷 同感です。歴史を学ぶということは、多様な過去の出来事からエッセンスを抽出し、条件の異なる現代の出来事を正しく理解することに尽きると思います。
(構成=花谷美枝/成相裕幸・編集部)
『日本人のための第一次世界大戦史』板谷敏彦著(毎日新聞出版)
2015年6月から1年半にわたり週刊エコノミストに掲載した連載を一冊にまとめた。産業史、軍事史、金融史から日本人が知らない歴史の転換点に迫る。定価2000円(税別)
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