◇おだか・まさあき
1967年埼玉県生まれ。93年獨協医科大学を卒業。同大学病院に勤務後18年目に東日本大震災が発生。震災1年後の2012年に南相馬市立総合病院に赴任、現在に至る。著書に『ドクター小鷹、どうして南相馬に行ったんですか?』(香山リカとの共著)(七つ森書館)など。
診察室で高齢者の方々を診察していても、仮設住宅に赴いて往診しても、被災地の問題は解決しない。あるプロジェクトを思い立った。
大学病院を辞めて福島県南相馬市の総合病院に赴任してきたのは、医師になって19年目の2012年4月、震災から1年が経過していた。
当時の混沌(こんとん)は解消されていたが、それでもなおインフラの不備やコミュニティーの崩壊、そして何よりも、若い世代が流出し、7万1000人いた市の人口が、震災後に1万人にまで減少した。赴任した頃には4万6000人まで回復していたが、65歳以上の高齢者が3割強を占め、仮設や借り上げ住宅の生活者は合計で2割にのぼっていた。
◇「半年で交代ですか?」
病院も250床に対して14人の常勤医が震災直後に一時4人まで減った。私を含め医師は15人に戻ったが、半数近くの医師は月単位か1年で異動する派遣で、私も「今度新しく来た先生ですね。また半年くらいで交代ですか」という質問を数人の患者から受けた。この病院で完結するような標準医療を提供するには、人の手はまだまだ足りなかった。
神経内科を立ち上げ、在宅診療も始めたが、椅子に座って診療だけしていても南相馬市の医療問題は解決しないことを早々に理解した。そこで行政と連携し、医療講演を繰り返し、神経難病患者のためのシステム作りを目指した。仮設住宅で暮らす高齢者に出張インフルエンザワクチン接種や健康サロンも開いた。
地震・津波・原発事故というトリプル災害で家と家族と仕事を奪われ、仮設住宅での生活を余儀なくされている人たちの動向に、すぐに関心が向くようになった。
被災地のなかでも原発問題を抱えるこの地域の疎外感は特異的なものと感じた。とにかく子供がいなかった。だから本当に静かで高齢者世代も孫のお守りをする必要がなかった。結果として、老人は家に閉じこもりがちになる。「孤立死」の多発は目に見えている。高齢化が加速度的に進行するこの地域の医療をどうしていけばいいのか。仮設住宅の集会所でサロン活動やラジオ体操、ハイキングなどを催しても、参加する人は女性が圧倒的に多く男性は少ない。とくに熱心に仕事をしていた男性ほど、それをなくしたショックが大きく、人生の方向性を見いだせず、将来の展望を描けない人がいた。
新たなコミュニティーを築けない、そうしたシニア世代の男たちは自宅に引きこもりがちになり、結果として孤独となり、アルコールに依存したり、パチンコで少ない賠償金を浪費したり、最悪のケースには孤独死や自殺といった事件が社会問題になるのは、もはや明らかだった。
当院の在宅診療部の定例会合で、独居男性の将来を問題視する声が高まり、できるだけのことをしたいという機運が生まれた。活動の候補にのぼったのが「木工教室」だった。
中高年男性の興味は何をおいても手作業だ。かつて1次産業や製造業に就いていた人たちが少なくない。彼らの願いは「土いじり」や「創作」だ。仕事を失い、引きこもっている人たちに今一度、物づくりの楽しさ、働く意欲を取り戻してもらいたい。議論を重ね、13年10月下旬、木工教室のためのチーム・ホープ(HOHP)、つまり引きこもり=H、お父さん=O、引き寄せ=H、プロジェクト=Pが誕生した。病院の有志9人がメンバーとなった。
創設時のチームHOHPのメンバー 筆者提供
◇打ち込める何か
街の復興に貢献したいという私たちの願いを、協力してくれそうな方々に打ち明けていった。その結果、全国建設労働組合総連合のボランティア指導が決まり、内装業を営む工場の一角を、アトリエとして無償で間借りすることもできた。
協力を申し出てくれた工具メーカーから木工道具が供与され、うわさを聞きつけたNPO(非営利法人)から製造の依頼も受けた。そして警戒区域を解かれたが、復興の進まない南相馬市小高区で頑張っている職員たちの憩いの場として、区役所内に設置されるカフェで使用するテーブルの注文を受けた。正月返上で準備したチーム・ホープ「男の木工」の第1回が13年1月の第3日曜日、参加者2人で始まった。3カ月かけてテーブル5卓を完成させた。その活動は区役所内でのカフェのオープンに大きく貢献し、うれしいことに集いの場の提供へとつながった。
お昼だけの時間限定の営業だが、区民は「そこに行けば誰かに会える」という空間へと変化した。木工教室の初回の参加者は2人だったが、1年後には15人に増えた。
年齢は33歳から最高齢は80歳。男女比は12対3。震災以前は、小高区や鹿島区の沿岸部に住居を構えていたが、津波で家をなくした人が8人いた(仮設住宅の人が7人)。
徐々に参加者が増え、生産速度は増し、精度が上がっていくことは喜ばしかったが、作業中の彼らは地味で常に寡黙である。これまでに何度か、新聞社やテレビ局からインタビューを受けてきたのだが、多くを語ることはなかった。世間話で談笑することさえもなかった。
そんなことより、正確に計測し、真っすぐに木を切り、滑らかにカンナをかけ、垂直にビスを差し込み、塗装を繰り返す作業だけを考えているようだった。そして、製品が完成したときにだけ、ほんの少し笑みを浮かべる。彼らの培ってきた満足感や充実感は、そういうことなのだろう。「とにかく良い物を造る」という結果が何より優先されるのだ、と理解した。運営方法にも工夫を重ね、県と市からいくばくかの助成金を得ることで、発注者に無料で木製品を寄贈することを可能にした。「男の木工」での彼らの取り組みを見ていると、私たちは何か勘違いをしていたかもしれないという気になってくる。引きこもりから引き出し、コミュニティーを創出させ、人との触れ合いの場に慣れさせようなどということは、行き過ぎたお節介だったのかもしれない。
彼らに必要なものは、「コミュニティー」でも「絆」でも「語らいの場」でもなく、「没頭できる何か」であり、熱中してできることへの取り組みであった。“コミュニティーの創出”や“ソーシャル・キャピタル”といったものは、付加的な現象なのである。まずは、ここに居られること、ここでやれるという自信のための空間が必要なのである。
そのことに気づいた私たちは、無理に彼らをおしゃべりに引っ張り出すようなことはやめた。それよりも必要なのは、とにかくこだわりの域に達するような製品を造ってもらう結果にあった。“打ち込める何か”が存在したうえでの「コミュニティーの場」である。
ただ、質の高い製品を造るためには、職人からの指導は不可欠であり、仲間たちとの協働も大切である。そうしたなかで自然と対話が生まれてくれば、それでいいだろうし、なかには運営をマネジメントすることに新たな価値を見いだしてくれる人も現れるかもしれない。大切なことは、この木工教室に愛着を感じてもらえるかであり、極端なことを言えば「自分のよりどころ、あるいは居場所として、この場を大事に育てていきたい」と思ってもらえるかである。
無口だが、一つのことに集中し、自分を奮い立たせ、維持していく。そのなかには、個人としての葛藤もあるだろう。その自己とのバランス調整を、この作業は確実に支えているような気がする。
(小鷹昌明・南相馬市立総合病院医師)