景気後退の前に緩和余地を作るためにも長期金利目標を引き上げる。このシナリオを阻むのがトランプ米大統領だ。
早川英男(富士通総研経済研究所エグゼクティブ・フェロー)
日銀の金融緩和の「出口」をめぐる最大の困難は、2%の物価目標を達成した後に訪れること、そしてその困難は、(1)財政の維持可能性に関する信認を欠いたままの「出口」における長期金利の急騰、(2)超過準備への付利引き上げに伴って日銀に発生する巨額の赤字──という二つの形を取るであろうことは、筆者も繰り返し強調し、また当欄で多くの識者が指摘してきたことである。
しかし現実には、この「出口」はまだ相当に遠い。日銀は2013年4月の段階で「2年程度」としていた2%目標の達成時期について先送りを繰り返してきたが、今年4月の「展望リポート」ではついに目標達成時期に関する記述自体を削除してしまった。
これは事実上、2%を中長期目標へ位置付け直すものであり、イールドカーブ・コントロール(YCC、長短金利操作付き金融緩和)の導入以来進めてきた持久戦の構えを完成するものと評価できよう。
「出口」を考えるうえでは、現在の日銀の政策枠組みであるYCCに長期と短期という二つの金利目標がある以上、その「出口」にも2種類あること、このうち長期金利目標は、昔の為替相場制度にならって言えば、ペッグ(固定制)ではなく、アジャスタブル・ペッグ(調整可能な固定制)だ、という2点を理解しておくことが重要である。
そう考えると、短期金利の引き上げ、バランスシートの縮小といった現在FRB(米連邦準備制度理事会)が行っているような本格的な「出口」はあくまで2%目標達成の後だとしても、それに先立って長期金利目標の調整が行われる可能性がある。
◇日銀が強める景気後退の不安
物価の動きは、2%目標は遠いとしても、徐々にしっかりしてきている。生鮮食品とエネルギーを除いた消費者物価指数(コアコアCPI)の前年比は、昨年半ばまでゼロ近傍だったが、足元はプラス0・5%まで高まってきた。うまくすれば、年末ごろにはプラス1%に達する可能性もあるだろう。また、最近の原油相場の上昇を踏まえると、生鮮食品を除いた消費者物価指数(コアCPI)の前年比はしばらくプラス1%、ないしそれを上回って推移する可能性がある。日銀は明示的な言及は一切避けているが、コアコアCPIがプラス1%超で推移すると見通せる状態になれば、長期金利目標の引き上げが行われる可能性は十分にあると筆者は考えている。
このままインフレ率が高まって長期金利目標の引き上げにつながるのは、民間金融機関にとっても日銀にとっても待望のシナリオと言えよう。金融機関の多くは、保有していた既発の高利回り債の大半が償還済みとなって、運用難に一層苦しんでおり、長期金利上昇への期待が著しく強い。
一方、現在の日銀内部では物価目標の早期達成への意気込みよりも、目標達成前に次の景気後退が到来することへの不安の方が勝りつつあるのではないか。そうであれば、その際の政策対応余地を持つため、少しでも早めに長期金利の水準を上げておきたいと考えるのはごく自然である。
事実、4月の「展望リポート」を見ると、コアCPIの上昇率(消費税の影響を除く)は20年度も1・8%にとどまるうえ、「物価については下振れリスクの方が大きい」と記されている。さらに、経済成長率については19、20年度ともプラス0・8%と2年連続で潜在成長率をわずかに下回る見通しとしたうえで、「19年度以降は下振れリスクの方が大きい」との記述が加わった。「見通し期間の終盤にかけては、資本ストックの調整圧力が高まっていく」との評価と併せれば、日銀が19年度以降に景気後退の可能性を意識し始めたと読むのが自然だろう。
しかし、筆者が最近心配し始めたのは、今後、1ドル=100円割れ程度まで円高が進み、この長期金利目標の引き上げシナリオの実現を阻むかもしれないという点である。
ここでは、大規模金融緩和の下で急激な円安が進んだ13~14年は、日本の貿易赤字が急拡大し、経常収支さえ赤字転落が懸念された時期だったことを確認しておこう。為替が動く要因としては、対外収支、金利差、購買力平価の三つが挙げられるが、この時期の円安には金融緩和だけでなく、貿易赤字拡大の影響が大きかったと考えられる。
一方、その後の原油価格急落にここ2年ほどの輸出主導景気が加わって、現在の経常黒字のGDP(国内総生産)比は4%を上回っている(図)。昨年後半ごろから米国の長期金利が上昇し、日米金利差が拡大した割に円安が進まなかった一因には、この日本の黒字拡大があったと考えられる。
とは言え、それだけなら先行きの為替レートは金利差と経常黒字の綱引きであまり大きくは動かないから、さほどの懸念は不要である。問題は、そこにトランプ米大統領の政策が加わってくる点にある。大規模減税によって財政赤字が急拡大すれば、貯蓄・投資バランスの裏側として米国の対外赤字も拡大するはずだが、対外赤字削減を最大の公約の一つとしてきたトランプ大統領にとっては、11月の中間選挙を前に赤字拡大が明らかになれば大変困ったことになる。
もちろん、対外赤字の拡大は自らの政策が招いた結果なのだから、本来責めを負うべきはトランプ大統領本人である。しかし、トランプ氏が自らの責任を認めるような人物でないことは誰もが知るとおりだ。必ずや黒字国に責任を転嫁するに違いない。その場合、最も手っ取り早いのは、黒字国の通貨政策をツイッターなどで攻撃することだろう。主なターゲットは中国だが、黒字が拡大している日本も安心はできない。
購買力平価が1ドル=100円程度であることを踏まえれば、現状から多少円高になっても日本経済への影響は限定的だろう。90円台程度で経営を脅かされる輸出企業はほとんどない。現在の景気拡張期間は既に5年半近くになるから、円高が景気反転のきっかけになるかもしれないが、ミニ景気後退ならばむしろ健全な調整と言える。雇用面では、人口要因を背景とした構造的な人手不足が多少和らぐ程度だと筆者は考える。
◇円高で剥がれる「化けの皮」
しかし、政府・日銀にとって円高は大問題となり得る。2%の物価目標が達成できなくても潜在成長率が高まらなくても、アベノミクスが「一定の成果を上げた」と言えるのは、企業収益の改善と株高のお陰である。だが、これらはいずれも主に円安の結果に過ぎない。円安により日本企業が海外子会社から受け取る配当などが見かけ上膨らんだ部分も含めて企業収益が増え、株価も上昇した。為替が円高となり、水ぶくれした企業収益が悪化して株安となれば、アベノミクスは「財政健全化の遅れと、金融市場の価格形成のゆがみや金融仲介機能の低下などをもたらしただけだった」と化けの皮が剥がれてしまう。
特に日銀にとっては、円高が進んで物価が頭打ちになれば、長期金利目標引き上げの前提自体が崩れてしまう。株安となれば、支持率が揺らぎつつある安倍政権は金融緩和を求めてくるに違いないが、もともと円高に対して金融面で打てる手は限られてきているうえ、無理な金融緩和は米国から円安誘導批判を招く恐れがある。為替レートが政治化すれば、日銀は窮地に陥ってしまうだろう。
(早川英男、富士通総研経済研究所エグゼクティブ・フェロー)
◇はやかわ・ひでお
1954年愛知県生まれ。77年東京大学経済学部卒、日本銀行入行。83~85年、米プリンストン大学大学院(経済専攻)留学(MA取得)。2001年日銀調査統計局長、07年名古屋支店長、09年理事を経て、13年4月から現職。著書に『金融政策の「誤解」』