◇異変!北戴河会議
金子秀敏
(毎日新聞客員編集委員)
中国国営の新華社は8月17日、習近平国家主席が「一帯一路」(陸と海のシルクロード経済圏)構想に関する会議で重要演説を行ったという記事を配信した。これは、現役指導部と長老の密室協議である「北戴河(ほくたいが)会議」が終わって初めての習主席の動静で、北戴河会議で個人独裁を強めようとした習主席が、それに反対する江沢民元国家主席ら長老との権力抗争に敗れたことを示唆するものだった。
北戴河会議は毎年8月上旬に河北省の共産党幹部専用の避暑地で開かれるもので、今年は来年秋の党大会で選出する次期指導部人事の内定が最大の焦点だった。
記事に添付された写真は会場の全景で、習主席だけを撮影したものはなかった。また、習主席が唯一の最高指導者であることを意味する「核心」の文字もない。
さらに別の記事には「習近平を総書記とする党中央」の見出しが付けられた。「総書記とする党中央」とは「集団指導制」を意味する定型表現で、政治局常務委員会の多数決で決定する「集団指導制」は鄧小平が確立した制度だ。このことは、習主席が1月から始めた自らを「核心」の地位につける運動が失敗したことを意味する。
「一帯一路」の会議で習主席は、鄧小平政権以来の改革開放政策が中国の経済成長にとって正しかったことを明言し、やはり鄧小平政権の「全方位対外開放」という外交政策の堅持を表明した。
習主席は就任以来、鄧小平路線を継承する李克強首相と対立を深め、経済では改革開放に代わる「改革深化」路線として、安全保障・外交では太平洋方面に軍事進出することで米国と軍事対決も辞さない「米中の新型大国関係」を主張していた。それが鄧小平路線を継承するのであれば、180度転換したと言える。北戴河会議で長老たちから鄧小平路線の継承を迫られたことで、方針転換を余儀なくされた可能性が高い。
これに合致する事実として、北戴河会議が始まった直後には南シナ海や東シナ海で海空軍の軍事演習が行われて海警船が増えたが、北戴河会議後は日中韓外相会談が開かれるなど対外強硬路線が軟化していることが挙げられる。
8月17日は江氏の90歳の誕生日だった。米国の中国情報サイトによると、この日、習主席は党最高指導部である政治局常務委員全員を連れて江氏の滞在先を訪問し、誕生日を祝ったといううわさが流れている。
◇習氏の内政・外交の大転換
「一帯一路」の会議は、政局的な関心も呼んだ。会議出席者の中に、次期党大会で政治局常務委員に昇進することが確実とみられる2人の若手政治局委員、孫政才・重慶市党委員会書記(江沢民派)、胡春華・広東省党委員会書記(共産主義青年団派)の姿があった一方、習主席の意中の後継総書記候補と言われた韓正・上海市党委書記の姿がなかったからだ。
孫、胡両氏は習政権の前の胡錦濤政権時代に習政権の次の政権で党総書記・首相の有資格者となるように選抜された人物だ。「1世代先の後継者指名」というルールも権力バランスに配慮した鄧小平氏が遺(のこ)したものだが、習主席はそれを覆して自らの元部下である韓氏を次期党大会で政治局常務委員に起用して後継の次期総書記の候補とし、自身も「核心」の地位を目指していた。
そのどちらも北戴河会議で却下されたとなれば、来年の党大会人事、その準備を始める今年10月の「六中全会」(第18期共産党中央委員会第6回総会)へ向けた中国政局は、習主席が江沢民派と李首相らの共青団派に譲歩したことになる。……
(『週刊エコノミスト』2016年9月13日号<9月5日発売>25~26ページより転載)