◇米国&国際財務報告基準(IFRS)の採用企業
◇積み上がる「のれん代」の落とし穴
松田 遼
(金融アナリスト)
/
浜條 元保
(編集部)
キリンホールディングス(HD)は2015年12月期、1949年の株式上場以来、初の赤字に 陥った。580億円の黒字予想から一転して473億円の赤字決算である。
誤算は、11年に約3000億円で買収したブラジルのビール会社、スキンカリオー ル(現ブラジルキリン)だった。
◇のれん代=将来の「稼ぐ力」
買収当時、スキンカリオールはブラジルで約10%のトップシェアを持ち、年率約10%売り上げが伸びる 有望企業だった。しかし、ブラジル国内経済の停滞と消費低迷から販売数量の落ち込みに加えて、同国通貨レアル安(円高)で業績は急速に悪化。その結果、キ リンHDは15年12月期で、買収時に計上していたのれん代など1100億円の減損処理を余儀なくされた。
のれん代とは、企業の買収時に支払われる対価と買われる企業(被買収企業)の純資産の差額を示す。通常は、買収額が純資産額を上回る。
のれん代の本質は、被買収企業が将来にわたり利益を稼ぐ力(超過収益力)を評価したものだ。貸借対照表(バランスシート)上では、無形固定資産として計上される。
のれん代を費用として計上(償却)するか否かは、会計基準で異なる。日本基準では、のれん代を20年以内で均等に費用計上する(のれん代の償却)。一方で、国際財務報告基準(IFRS)や米国会計基準では、のれん代の定期償却は行わない。
ただし、買収した企業の収益力が低下したと判断されれば、のれん代の評価を引き下げ、当初計上したのれん代との差額を損失処理しなければならない。これが、のれん代の減損処理である。
日本でもIFRSや米国基準を採用する企業が増えており、かつ国内外の企業買収が活発化している。M&A助言のレコフによると、15年のM&Aは前年比 6・3%増の2428件と3年連続で2000件を超えた。国内企業による海外企業に対するM&Aは同0・5%増の560件と高水準だ。
M&Aが増えた結果、積み上がったのれん代の予想外の減損処理を迫られるケースはキリンHDに限った話ではない。
楽天は2月12日に発表した15年12月期決算で、買収した仏ネット通販会社などの収益が当初の想定よりも低下したことから、のれん代など381億円の減損処理を実施。純利益が前期よりも37%減の442億円と足を引っ張る原因となった。
◇「自己資本」超えも
定期償却が不要なIFRSまたは米国会計基準を適用(適用予定を含む)している企業で、かつM&Aを活発に実施して、のれん代がバランスシートに積み上がっている状態は、潜在的な減損リスクを抱えていることになる。
そこで、IFRSや米国基準を採用する主な企業約100社を調べた結果、のれん代を含む無形固定資産残高が1兆円を超える企業は、ソフトバンクを筆頭に6社あった(表)。
企業財務に対するのれん代の影響を見るために、自己資本残高に対するのれん代の割合を確認しよう。のれん代がその他の無形固定資産に含められ、その内訳が 開示されていない場合が多いことから、ここでは便宜上、のれん代に代えて無形固定資産の合計額の数値を利用する。また、のれん代を含む無形固定資産がすべ て無価値となった場合の自己資本比率(調整後)も試算した。
のれん代などが自己資本の3割以上に達する場合、すべてを減損すれば、格付けの引き 下げや銀行融資を受けるための金利などの条件に悪影響をもたらす可能性が高い。そこで30%以上の企業を抽出すると、38社がリストアップされた(表)。 このうち50%を超えるのが20社、100%超が8社あった。100%超の会社とは、のれん代など無形固定資産の価値がゼロとなった場合、負債額が資産額
を上回る債務超過になることを意味する。
◇ソフトバンクと日本板硝子
のれん代が自己資本を上回る企業8社のうち、ソフトバンクグループと日本板硝子に注目する。両社ともにIFRSを採用。また海外の大手企業を買収したという点でも共通している。
ソフトバンクは、13年に米通信大手のスプリントを買収した。現在、ソフトバンクの総資産21兆円に、無形固定資産としてスプリント関連のものが約6・2 兆円含まれており、これはソフトバンクの純資産(資産-負債)の1・6倍に相当する規模だ。スプリントの業績が低迷し、多額の減損が生じた場合、ソフトバ ンクの自己資本が大きく毀損(きそん)されるリスクがあることを示す。
スプリント関連の無形固定資産の約7割となる約4・3兆円が、保有する周 波数への米連邦通信委員会からの免許(FCCライセンス)に対するものだ。免許制度の大幅な変更や技術革新による陳腐化によって、その価値が大きく毀損さ れ、巨額の減損が生じる可能性は否定できない。
また、ソフトバンクではスプリントに加えてTモバイルUSを買収することで、米市場で大手2社と 対等なシェアの獲得を目指していた。だが、TモバイルUSの買収が頓挫し、スプリントと大手2社とのシェアの格差は開いたままだ。スプリントの業績しだい では、ソフトバンクに多額の減損損失が発生する可能性がある。
次に日本板硝子。同社は12年3月期にそれまでの会計基準を日本基準からIFRS に変更している。同社は06年に英大手板ガラス企業であるピルキントンを完全子会社化した。当時、ピルキントンの売上高ならびに総資産は、それぞれ日本板 硝子の約2倍あり、小が大をのみ込む企業買収と話題になった。
日本板硝子はピルキントン買収当時、のれん代の約2000億円を含む無形固定資産 合計約4000億円を計上。これは当時の日本板硝子の純資産の1・1倍に達する。それまでは、のれん代を含む無形固定資産の残高は100億円に満たなかっ た。多額の無形資産を抱え込んだことで、日本板硝子の財務リスクが高まったと考えられる。
一方で、業績面で買収効果による増収と増益の恩恵を受 けたのは08年3月期まで。それ以降は、海外での競争激化による売り上げ低迷に加えて、のれん代償却などの負担も加わり、09年3月期以降、5度の赤字決 算に陥るなど業績不振の時代が続いた。15年3月期にようやく最終損益で赤字を脱したものの、ピルキントン買収初年度となる07年3月期から前年度までの
最終損益における累損は900億円を超える。
もっともIFRSや米国基準採用でも、トヨタ自動車などのように無形固定資産をほとんど計上していない企業もある。IFRS採用企業=財務リスクの増大とは必ずしも言い切れない。
◇基準の違いがM&Aの差
しかし同じ業種内で比較すると、会計基準の違いでのれん代の計上に差が見られる。
たとえば、キリンHDとアサヒグループHDは日本基準。日本たばこ産業(JT)はIFRSであり、サントリー食品インターナショナルは17年12月期から IFRSの適用を予定している。各社の15年12月期決算を見ると、JTとサントリー食品インターナショナル2社ののれん代を含む無形固定資産の自己資本 に対する割合(7~10割超)は、前出の日本基準の2社(3~5割)よりもかなり高い。
また、米国会計基準を採用する東芝ののれん代を含む無形固定資産の自己資本に対する割合は73%と、日立製作所(25%)や三菱電機(4%)など同業他社と比較すると、高水準である。
実は、経済学者や会計専門家の中にも、IFRSや米国基準におけるのれん代の計上やその評価を危ぶむ声は少なくない。
元東京大学教授の岩井克人氏は共著『IFRSに異議あり』で、のれん代など市場価格のない資産について、仮想的な市場モデルに基づく公正価値(時価)の計 算は「究極的には、経営者の経営能力やその経営者がコントロールする会社全体の組織能力を、その経営者自体が主観的に予測することになってしまう」と警鐘 を鳴らす。
国内再編や海外展開を進める企業の大型買収は、今後も続くだろう。定期償却が不要な会計基準を採用する企業は、積み上がるのれん代に伴う財務リスク管理力が問われる。
◇競り合い買収を断念したブリヂストン
のれん代の減損処理を回避するには、高値づかみを回避することが重要だ。買収をめぐり競合相手が登場し、買収価格がつり上げられれば、買収を断念するのも大きな経営判断である。ブリヂストンが米企業買収を見送ったのは、その好例だろう。
2015年末、ブリヂストンは現預金と有価証券を合わせた手元流動性として6000億円を持ち、市場はその使い道に注目していた。同社は同年10月、全米 に800店舗を展開するタイヤ販売大手のペップ・ボーイズを当時の株価の2割強のプレミアムを乗せて約1000億円で買収することで同社経営陣と一度は合
意した。全米に約2200店の販売網を持つブリヂストンにとって、ペップを傘下に置けば、販売網を一気に増強できる。
しかし、同年12月になっ て米国の著名な投資家であるカール・アイカーン氏がペップの買収に名乗りを上げた。ブリヂストン、アイカーン氏の両者で買収価格を徐々に引き上げる買収合 戦に発展。買収価格が当初より2割ほど引き上げられたところで、ブリヂストンは買収を断念した。
ペップは過去2年間で最終赤字を計上するなど近 年の業績は芳しくなく、買収提案前の株価は低迷し、純資産額を下回るような状況にあった。アイカーン氏による最終的な買収額は、ブリヂストンの買収提案直 前の1.5倍の価格となっている。ブリヂストンが割高と判断し、買収合戦から撤退したことは合理的な判断といえよう。
◇市民感覚から乖離する会計
◇ 「東芝のれん代」はその典型だ
細野 祐二
(会計評論家)
貯蓄から投資へと政府は号令をかけるが、私は財務諸表の読者である個人投資家や一般市民から、会計制度がどんどん乖離(かいり)しているように思う。その典型が、東芝不正会計で注目されたのれん代の減損問題だろう。
日本で会計ルールを作るのは、企業会計基準委員会という民間団体だ。2000年代に入り、会計基準作りは民間でなければならないという国際的な流れを受け て、設立された。その構成メンバーを見ると、会計士や学者、大手銀行、大手商社の幹部が中心で、企業経営者の意見が通りやすい。
のれん代は、日本基準ではもともと5年以内の償却が必要だったが、負担が大きすぎるという経営者からの要望が反映される形で、現在の20年になった。米国は40年の償却から定期償却が不要という現在の基準になり、国際財務報告基準(IFRS)も同様だ。
経営者にとって、のれん代の償却負担は大きく企業買収に二の足を踏ませる要因となる。それがない米国基準やIFRSは買収へのハードルを引き下げると同時に、目先の利益を大きく見せたい経営者には魔物だ。
たとえば東芝は、純資産2400億円の米ウェスチングハウス(WEC)を6400億円で買収した結果、のれん代は4000億円に達した。日本基準なら、毎期に200億円(4000億円÷20年)の償却が必要となる。軽い負担ではない。
通常、純資産(2400億円)で買収しても、経済産業省が上場企業に求めるROE(株主資本利益率)8%の利益が期待される。つまり、192億円 (2400億円×8%)の利益が求められる。のれん代の4000億円は、純資産を上回る超過利益を稼ぐ価値があるとして計上している資産だから最低でも2
倍のROE16%が欲しい。すると、毎年1024億円(6400億円×16%)の利益が求められる。
しかし、東芝が買収した06年度以降、10 年間のWEC単体の営業利益累計は2.9億ドル(330億円)の赤字。米国基準やIFRSは将来生み出すキャッシュフロー(現金収支)を基にのれん代の減 損テストを毎期実施して、収益性に問題がなければ、減損の必要はないというが、試算に使う数字(割引率)や対象事業の組み合わせによって、将来収益に問題
ないという「作文」はできる。経営者の恣意(しい)性が働く余地が大きい。
一般市民感覚からすれば、「WECの過去の収益見通しが間違ってお り、そんな間違った収益見通しを示し続ける東芝の作文をうのみにする会計士がおかしい」とならないか。今期末には自己資本比率が2.6%(自己資本は 1500億円)と、異常な低水準に落ち込む東芝の株主にとっては、「6400億円の巨額投資は、失敗だった」とならないか。(談)
(『週刊エコノミスト』2016年3月15日号(3月7日発売)74~77ページより転載)
この記事の掲載号
定価:620円(税込み)
発売日:2016年3月7日
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