出口に向かう政策変更で市場に混乱を来たさないために、現実的な目標に移行すべきだ。
福田慎一(東京大学大学院 経済学研究科教授)
日銀が2013年4月に異次元の金融緩和によって2%の物価目標を2年で実現すると公約してから、4年半余りが過ぎようとしている。
当初はインフレ率がターゲットとする消費者物価指数(CPI)のコア指数(生鮮食品を除く総合)で1%を上回ることもあったが、14年秋以降は消費税の影響を除いたベースでインフレ率が1%を割り込む状況が続いている。特に、エネルギー価格を除いたコアコア指数(食料及びエネルギーを除く総合)は、昨年来低迷が顕著で、今年に入って前年同期比でマイナスに転じてしまった。
当初は2年で実現するはずだった2%のインフレ率達成に向けた道のりは、ますます厳しくなっているのが実情である。
◇6度、4年の先送り
その間、日銀は2%の物価目標が達成されると考えられる時期を6度にわたって先送りした。その結果、異次元の金融緩和が開始された際には「15年度を中心とする期間」としていた目標達成の時期は、今年7月には「19年度ごろ」と当初から4年も後ズレすることとなった。しかも、「19年度ごろ」という現在の見通しですら、今後に再び先送りされるのではないかという見方が市場関係者の間では一般的である。
伝統的に、中央銀行の経済予測は、民間の予測よりも優れていると考えられてきた。これは、中央銀行は優れた専門スタッフを多数抱えているだけでなく、その予測の達成に向けて金融政策を実施することができるという特別の立場にあるからである。
日銀が公表する経済予測も、かつては高い精度を保ってきた。しかし、2%の物価目標を設定して以降、その予測精度に大きな陰りがみえ始めている。これは、物価目標を設定した他の中央銀行とは好対照な傾向である。
その大きな理由としては、日銀が設定した2%のインフレ目標が高すぎて、結果的に実現可能性が低いものとなってしまったことが挙げられる。他の物価目標を設定した中央銀行も、その目標を完全に実現してきたわけではない。しかし、設定した目標を大きく下回るインフレ率が長期間にわたって続くという日本の状況は、他の物価目標を設定した国々ではみられない異常なものである。
目標達成時期の度重なる先送りは、単に予測精度の低下にとどまらない深刻な問題を日銀にもたらす可能性がある。それは、金融政策を行う日銀に対する信認の低下である。
近年の金融政策では、中央銀行が「市場との対話」によって市場からの信認を確保し、それによって人々の予想を望ましい方向に誘導する「フォワード・ガイダンス」の役割がますます重要となってきている。とりわけ、政策金利が実質的にその下限に達し、伝統的な金利調節を行うことができない「流動性のわな」の下では、中央銀行が市場から信認を得て政策運営を行うことはこれまで以上に必要となっている。
日本は、異次元の金融緩和の長期化で、日銀が購入できる国債残高は限界に近づいており、金融政策で残された選択肢は限られてきているのが実情である。
今後は、極端な金融緩和を見直し、経済を正常化させるための「出口戦略」も必要になってくると思われるが、日銀が市場の信認を十分に回復できない場合、その政策変更によって市場が大きく混乱する懸念すらある。このため、日銀がいかにその予測精度を回復し、市場からの信認を高めていくかは今後の極めて重要な課題といえる。
日銀が信認を回復するための手段を議論する際、「もしあの時このような政策変更を行っていたならば」といった「たられば」の議論をすることはもちろん可能である。実際、今回の異次元の金融緩和が始まった当初、政策が市場の予想を上回る効果を上げた際に、それを大きな成果として政策変更を行っていたならば、日銀に対する信認は現在も高いままであったはずである。
しかし、時計の針はもはや元には戻せない。したがって、日銀がいかにして信認を回復すべきかに関する議論も、現在置かれた状況を所与として議論せざるを得ない。
残念ながら、そのための選択肢は非常に限られている。ただ、2%の物価目標は当面達成できそうにない一方で、日本の経済状況自体は改善している。
14年4月の消費税引き上げ以降、回復が遅れ気味であったGDP(国内総生産)も、16年以降は物価変動の影響を除いた実質ベースで増加が続き、民間予測では17年度の成長率が経済の実力を示す潜在成長率を大幅に上回るとの見通しも広がっている。
労働市場では人手不足が顕在化し、各種の雇用関連指標が大幅に改善している。企業セクターでも、収益の大幅な増加は顕著で、株価は大きく上昇している。財・サービス市場における需給ひっ迫度を示す「GDPギャップ(需給ギャップ)」もプラスに転じつつあり、数字上は日本経済で長い間続いてきた需要不足がほぼ解消されつつあることが示唆されている。
◇信頼回復への道
このため、これら経済状況の改善を理由として、実現困難な物価目標の旗印を下ろし、より現実的な目標設定に移行することが、今の日銀ができるベストではないがベターな対応と考えることができる。
そのための方法としては、米国の連邦準備制度理事会(FRB)のように物価の安定と雇用の最大化という二つの目標を設定することも考えられなくはない。しかし、二つの目標が存在する場合、どちらの目標を重視するかに恣意(しい)性が生まれる。また、労働人口の減少が見込まれる日本では、人手不足が慢性化し、雇用と景気の連関が以前よりはるかに小さくなっている。
このため、より現実的な対応は、物価と経済成長の両方の動向を反映する名目GDPを目標とすることであろう。
最近の経済状況をみると、2%の名目GDPの成長であれば、目標としてもその達成はそれほど難しいものではない。図で分かるように、四半期ベースではすでに13年から14年にかけて2%を超えていた。3%の名目GDPの成長となると、その達成に向けたハードルはやや高くなるが、15年は3四半期連続で3%を超えるなど、実現可能性は2%の物価目標よりははるかに高い。
四半期データである名目GDPは、月次データの消費者物価に比べて速報性という点でターゲットとするには適さない面がある。しかし、それと代替的な速報性のある指標はいくつか考えられ、それらを参考指標として使うことで、名目GDPをターゲットとした政策運営は十分に可能である。
日銀が実現可能な目標を設定し、金融政策をそれに応じたものにしていけば、失った信認を回復していくことが可能だろう。そうすれば出口についても説得的に語ることができる。名目GDPで2%台の成長を実現できれば、日本経済としては上出来で、金融政策の変更も視野に入るということになれば、日銀の選択肢は広がるし、市場の見方も変わるだろう。いつまでも2%の物価目標にこだわり、出口については時期尚早と言い続けていては市場との対話は成り立たない。
足元では、米国に続き、欧州でも、超金融緩和政策からの「出口戦略」への道筋がみえてきている。いまや日本だけが取り残された状態である。実現可能性の高い政策目標で信認を取り戻すことが日銀にとっての喫緊の課題といえる。
(福田慎一・東京大学大学院 経済学研究科教授)
◇ふくだ・しんいち
1960年生まれ。84年東京大学経済学部卒業、89年イェール大学大学院博士課程修了(経済学博士)。96年東京大学大学院経済学研究科助教授、2001年から現職。近著に『金融論─市場と経済政策の有効性』。
*週刊エコノミスト2017年11月28日号掲載